はしわの若葉<2>(中尊寺から、配志和神社)

天明6年(1786年)真澄33歳の紀行文です。 


旧暦4月~6月にかけて、岩手県一関市大東町(旧磐井郡)付近を散策します。 

大原の桜を愛で、正法寺、黒石寺に詣った真澄は、北上川を渡り、中尊寺や山ノ目(一関)の配志和神社を詣でます。


大桜の村

=真澄記= 

9日、六日入村を出て前沢を通って霊桃寺を訪れた。漆寺の前を通ると古い桜のヒコバエに花が咲いている。 

「うまやのはし」という大桜を見ようと大桜の郷に行った。大桜の社がある。不動尊を祀っている。 

大きな一重の山桜がある。この桜測ってみれば三尺4・5寸めぐるという。これは秀衛に時代のもので、この木をもってこの村を大桜と言うそうだ。

霊桃寺

霊桃寺境内の古桜

大桜公園

大桜社



衣川

=真澄記= 

衣川に来る。ここに「検断(けんだん)桜」と名のある桜がある。秀衡の頃、関所が置かれた所だ。 

また、安倍貞任の館があった跡で、源義家が「ころもと盾はほころびにけり。」と下の句を添えて、弓に矢をつがえれば、「年をへし糸の乱れの苦しさに」と和歌の上の句で応答したと伝えられる所だ。


<弁慶の最後> 

この衣川も昔は大きな流れが逆巻いていたと言う。 

高館落城のおり、武蔵坊弁慶が衣川を渡ろうとして、あまりの水に「中の瀬」にしばし佇んでいたが、岸辺から矢ぶすまで射られて倒れた。岸に立つ兵が、「見よ、弁慶一人が水上に流れていく。見よ、この不思議を。」言ったそうだ。 


囲炉裏の上で燻製を作るのに、串を刺すための藁を巻いたものを「弁慶」と言うのも、武蔵坊弁慶が矢を蓑のごとく射られた姿に似ているからだと、里の翁が語ってくれた。

安倍氏館跡の北館の桜

桃源のお屋敷

弁慶の最後、衣川の原野
北上川との合流場所

囲炉裏の弁慶(資料)



中尊寺

中尊寺

=真澄記= 
<中尊寺の初午祭> 
中尊寺にくれば、全ての堂の扉を全部開いて、白山姫神社などは白い帳(とばり)を垂れて、白い帽額(もこう)を引き渡している。 

「おひとつうま」と言って、白山神社の前の舞堂で、田楽開口祝詩、若女の舞、老女の舞など、衆徒が集まって猿楽を踊る。

白山神社の能楽殿


<古杉みちのく> 
「老姥杉(うばすぎ)」という大きな空樹がある。この樹は国主から「みちのく」と銘給われたと言う。その木も今は吹折れ、倒れてしまったと人は語っている。 
また、この中尊寺に「薄墨桜(うすずみざくら)という良い花があったそうだが、枯れて今はない。それを「弁慶桜」と言い、昔弁慶が植えたものだったそうだ。

白山神社の能楽殿


義経堂

<義経堂> 
中尊寺を出て義経堂に登ると人々がぬかずいている。ここに伝わる源九郎判官の由来は、これまでのものとも、清悦物語とも異なっているようだ。 
義経の事を記した「義経蝦夷軍談」という戦の文には、、、 
”泉三郎忠衛、また、金剛別當秀綱、亀井、片岡をはじめ、御家人一人も残りなく、皆松前に渡り、秋田治郎尚勝兵が兵糧を送り、彼らは大いに戦って蝦夷を治めた。上の国という所で見台所が若君をもうけ、島麿君と名乗った。” 
とある。



達谷の窟

達谷窟

=真澄記= 
達谷の窟に桜原と言うところがあると聞いてでかけた。 
<悪路王伝説> 
昔、悪路王がひそかに都に上り、葉室中納言の御娘を盗んでこの窟に隠れ住んだ。一年後の花の盛りの季節に、花見の酒宴で酔っている隙に、姫君が桜原を抜けて、訪ねてきた都人にいざなわれて都に戻った。という伝説がある。

姫待不動尊



五串村(厳美)

=真澄記= 
五串村(いつくしむら)に来る。この村の名は厳美(うつくし)という名で、山水清く飛泉の様はたぐいまれな美しさだ。 

<山王窟> 
厳美の神がおられたそうだ。この神ではないが、この奥の瑞玉山(みずたまやま)の奥に古い神社跡が残るそうだ。 
今はこのあたりを水山村(厳美本寺地区)の山王窟と言う。この奥に平泉野というところがあって、大日山中尊寺の跡、高林山法福寺の跡、栗駒山法範寺の跡、尼寺の跡、円位法師の庵の跡や骨寺の跡がある。この寺々を今の場所に遷したので、そこが平泉の里となった。 
今の平泉に逆柴山という名がある。これもここにある山の名だ。

厳美渓

<五串の滝(厳美渓)> 
人が皆愛でる「五串の滝」(厳美渓)を見れば、玉の滝(小松が滝)、京田滝、あたら滝、大滝、童子滝、はかり滝、魚屋滝、など、滝は平飛滝ながら、そびえたつ岩のために白飛沫をたてている。 
日影うつろって、紫の波が打ち寄せる岸には、桃、山吹、柳、桜の枝が交わって、たとえようのない美しさだ。

厳美渓



配志和神社

=真澄記= 
11日、配志和神社に詣でる。杜の梢は花散り若葉さし、まだ咲きやらぬ岨の木々もすばらしい。 

<老姥杉、菅香梅> 
鳥居の額は、土御門泰邦卿の書き給いしと言い、素晴らしい手風(てぶり)だ。 
この神社は皇孫彦火瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)、左方は木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメ)、右方は高皇産霊尊(タカミムスビのミコト)を祀っている。 
また、神明の御社や、八幡社、鎌足社、安日社、神星社、土守社などがあり、菅香梅と言って由ある梅も青さしている。 
ここにも老姥杉(うばすぎ)という千年の杉があり、枝の中から山桜の宿木が花を咲かせている。

「神星社」は知らないが、、、、、 

(安倍)貞任の長子、高星が二歳の時、姥が懐に抱いて津軽に逃れ、藤崎に隠れて住んだ。(後三年の役) 
高星に子があり月星と言う。その塚は川岸にあったが、洪水で土が崩れて棺ごと水底に落ち、そこが井桁のように見えたことから「井戸淵」と言ったそうだ。今は名のみである。 
また、川越某なる畠の名に「高星殿」「月星殿」と最近まで言ったそうだ。<霞む月星
かかることを思えば、恐(かしこ)き事から、神に勲位を授かることから、忠義ある人を神として祀ったものか。

老姥杉

配志和神社神明社

佇む神々達

梅の庭