霞む月星(向能代から桧山・達子を経て鯉川へ)

文化3年(1806年)真澄53歳の紀行文です。 

二月から三月にかけて向能代市にいて周辺を散策しています。 
また、桧山を訪れたほか、や小野小町ゆかりの小野村や達子、鯉川などを堪能しています。 
桧山は、桧山安東氏が北秋田を治めた居城です。 
安東氏は、前九年の役で倒れた安部貞任の子「高星丸」が津軽に渡って津軽安東氏の始祖として、その子「月星丸」と共に津軽を治めました。 
その後代を重ね、安東愛季がこの桧山へ築城、北秋田を治めて桧山安東氏となりました。 
真澄はタイトルに安東氏の始祖「月星丸」の名をとって「霞む月星」としたようです。


住吉の松原(風の松原)  

=真澄記= 
昔は西風が少し吹いても砂が舞い、 
家ごとの窓に入ってうっとうしいものだった。 
宝暦の頃、ここに住む白坂新九郎、鈴木助七郎の二名の武士が、公の許しを得て大勢の人を促して松を植えさせた。まるで般若山の尾を引くように。 
これで風が四方に立っても、砂吹雪にはならなかったそうだ。



向能代/高平城跡/徳昌庵  

釜が伝わる徳昌寺

=真澄記= 
向能代に来た。昔は渟代とも野代と言っていて能代は最近の地名だ。 
高平(高比良)の城跡がある。これは安部鹿季が築いたもので、「鹿野城」「鹿村」あるいは「鹿の丞」と言う。 
徳昌庵では主があやしい釜を出して「これは鰻尾鉾と言って八森に住んでいた頃、小入川の浦田から掘り出したものだ。」と自慢された。

徳昌寺隣の向能代稲荷神社



鶴形村/朴の木瀬(朴瀬)  

朴の木瀬の鎮守

=真澄記= 
鶴形村から舟に乗って朴の木瀬に来た。館があって名を「筑法師」と言う。昔は「月星」と言ったそうだ。
康平の昔、安部貞任が打たれ(前九年の役)、その子高星は津軽藤崎に逃れて家を築いた。(安東氏) 
高星の子に月星という君がいたそうだ。「高星殿」「月星殿」と言う畑名もここに残っている。
(その後安東氏はここ檜山に移り、檜山安東氏として栄えます)

朴の木瀬の築法師地区



桧山(箭掘の柵址)  

=真澄記= 
馬の蹄のあとがある大きな岩がある。ここは安部愛季(ちかすえ)がしばしここに居た跡と言う。 
東に森吉、西に男鹿の島山、あるいは白神・馬背内などの山々が連なっている。 
野原に出て谷を降りて行くと、観音堂がある。廣大寺と額があるが誰の書かわからない。 ここは、城介実季が幼く病にかかったとき、安部愛季が祈った所だ。
安部愛季祈念の観音>  <桧山の油土


檜山城跡の本丸跡

檜山城跡からの眺め

安東氏の菩提寺(多宝院)



達子  

=真澄記= 
岩川の庄達子村の薬師、常楽山梅栄寺と言う。 
岩川に望んで杉の大木がある。 
薬師堂を経て刀淵、日の澤川など、古城山の辺を流れて風情がある。

達子薬師堂



小町村  

岩河の岸

=真澄記= 
小野の小町のゆえんがありそうな「小町清水」が清く岩河の東の岸に落ちている。(写真左) 
鬼首山権現の桜もやや咲いている。(写真右) 
梵定山に古寺の址がある。源義家が出羽守の頃、この寺を作った伝説がある。

鬼首山権現



砂子沢/神馬澤/師走長峰  

=真澄記= 
このあたりは、梅の木が多く香しく山風が吹く。桃・梨などの枝を交て咲いているのがいい。 
山道では、澤に観音蓮(水ばしょう)が群生していて、阿弥陀仏が並んでいるように見える。 
師走長峰では、腰に木の皮の桶をつけて、鑿(のみ)で松脂をとる人がいた。 
篠の笹に包んで、敲(たたき)と言うものを作るそうだ。松脂蝋燭のことであろう。



市野の笛吹観音  

=真澄記= 
観音菩薩堂がある。(真澄:左) 
木の根のような御戸代(みたしろ)だ。 
笛を吹く人は、この菩薩に千本の竹笛を切って奉じ、その中でふっと手に触る一本をとって笛を作り練習すれば、必ず上達すると言う。 
例え10本奉じてもいいということで、笛竹を手向けてある。 
十八坂物語


浦の城跡  

=真澄記= 
三浦兵庫頭義豊の在した「浦の城跡」が高くある。今は田畑となっているが、昔をを偲べる。 
義豊は鎌倉から秋田に下り、城介實季に仕えてこの浦の城に住んだ。しかし、その子五郎丸義包が逆意を抱いたのを諌め、腹を切って死んだ。 
義包はその後北野の原または湊(土崎)で討たれた。 
その霊は怨霊となって多くの人を取り殺したそうで、一日市に社を造って祀ったと言う。


=AKOmovie= 

「浦城」:城主 三浦兵庫守盛永 

天正16年(1588) 湊安東家と桧山安東家の内紛のとき湊側に見方し、桧山方と戦争になって落城しました。

浦城の跡

浦城跡からの森山眺め

菩提寺(常福院)



天瀬川  

天瀬川

=真澄記= 
ここに住む萬助という者の母が、元禄の年に生まれて百六となって、国主より褒美を授かったと言う。 
今は去年身まかったそうだ。 
因幡の国に住む鎌部義左衛門は文化二年で百八十三歳、その妻小室が百七十三だったそうだ。 
(写真右は、天瀬川からの三倉鼻の眺め。脚名槌が祀られている)

三倉山の眺め



鯉川  

=真澄記= 
五百年の昔、名はわからないが中納言がさすらい来て、山陰に住んだ。 
村人はこの里の河の淵から大鯉を網して奉った。 
高貴の君は「この魚は秋田路にはない魚だ。君を慈しむ村人の心が浅からず、得がたいものを得たのだ。これよりはこの河を鯉川と称せよ。」と言った。 
それ以来、今の世まで村名となったと言う。



鹿渡の松庵寺  

=真澄記= 
高嶽山松庵寺は天文二十三年補陀寺十二世察心寿鑑和尚を開山とする。 
小滝というささやかに流れる滝がある。寶永三年、松庵寺十二世の智雄了察和尚と碑がある。 
木を伐り、巌をうがち、水を伝えて滝を造ったのは興福寺の仲算大徳に等しい。 

維平が源氏の軍と戦い、大軍が八郎潟に沈んだ志加の渡しでのはここである。世を忍んで袖が濡れた。