男鹿の秋風(秋田から門前、寒風山を経て能代へ)

文化七年(1804年)真澄51歳の遊覧記です。 

久保田(秋田市)の応供寺を出発、天王に着き、東湖八坂神社の神官鎌田利高と共に八郎潟を見ます。 
また、寒風山に登り、門前の日積寺に行きます。 
その後、若美町、八竜町をへて能代に着くまでの遊覧記です。 
真澄はよほど男鹿が気に入ったのでしょう。 
その後1810年(57歳)のとき、詳しく男鹿の旅を楽しんでいます。 
(男鹿の春風、男鹿の涼風、男鹿の島風など) 


応供寺

八月に真澄はここから男鹿に出発しました。 

=真澄記= 

八竜の湖に行って眺めたいと思った。 

地元の人は八郎潟と呼んでいるが、やまたのおろちを祀って、それがなまったのだろうか。 

応供寺を出発しようとすると、主人の湛然(たんぜん)上人に「早くお戻りなさい」と親しみ深く言われた。



北野

=真澄記= 

土崎湊を過ぎれば北野だ。昔一尺ばかりの榎の柱頭に狐を彫って立てていたが、今は砂に埋もれて柱頭だけ残っている。 

遠い昔は野馬が多く、「立野の牧」と言っていた。

 

 

 

 

真澄:北野


出戸北野神社

真澄:出戸神社

=真澄記= 
出戸村に入った。左手の茂木の中に社がある。 
ここは昔、菅大臣の館跡で、春、野火に焼かれたため、北野からここに社を遷した。 
このあたりの住人は、みな「菅原」の姓を名乗って家としている。

今の出戸北野神社



天王

真澄:天王の渡し

=真澄記= 
千福川が海に落ちる。この渡しを緒形と言い、雄潟あるいは男鹿戸とも言った。 
その頃は雄潟の橋と言って二百間の橋があって、湖では名だたる橋だった。
ある年、大波が押し寄せて壊れ、今は桁も残っていない。岸の基礎も水の底にわずかに見えるだけだ。 
今は四百間を舟で渡す。 
この浦より向こう岸に住み着いた人を舟越と言った。

船越の岸辺



東湖八坂神社

=真澄記= 
神主の鎌田筑前と語らい、日の暮れるのを待って、小舟を雇って湖の岸から漕ぎ出した。 

八郎潟の名月



船越八龍神社

=真澄記= 
この祠は、世に言う「八郎」と言う人が大蛇(おろち)となって難蔵法師と戦い負けてこの湖に入った。
この寒風山の麓、湖のほとりに八龍権現として大蛇を祀ったものだ。



岩倉の梅
=真澄記= 
岩倉という丘に八英の梅という年を経た樹がある。 
毎年3月には野も山も谷もこのかぐわしい匂いに包まれる。 
このような梅は、越後の国蒲原郡の孤島村や仙台の松島瑞巌寺にもあったが、この岩倉の丘のあたりにも、このようなみごとな老梅の大木があったとは、思いがけないことであった。

寒風山

真澄:寒風山の塔

=真澄記= 
昔は寒風山を妻恋山とも羽吹風山(はぶかぜやま)とも言った。頂上に九層の石の塔がある。 
岩山の谷間に水もなく窪んだところが古玉の池、また鬼(石倉)の隠れ里というのが大岩が重なった石積の中にあった。 
路に新玉の池があり、芦が茂り水鳥が群れていた。 

寒風山遠景


荒涼とした窪み

鬼(石倉)の隠れ里

新玉の池


寒風山から男鹿半島を望む

=AKOmovie記= 
この石の塔は今はない。文化七年(1810年)に男鹿の大地震があり倒壊してしまった。 

この時にも真澄は男鹿に滞在していて、「寒風山の塔の峰のあたりは陥没してい落窪になったようである。」「寒風山の麓に卒塔婆をたて、地震で死んだ人たちの霊をまつる供養が行われた。」とあります。

今も残る供養塔


<新玉の池物語>=真澄記= 

昔、玉姫というたいそう美しい女が、この池に身を沈めた。 

その玉姫の御霊が今も残って、岸辺の芦の穂に現れる。かよわき女が衣を洗って、布をさらしているのだ。 

「さらしの板」と言って、二つの板が、今も朽ちずにあるのは、また怪しいことである。


脇本

菅江:涌元の浦

=真澄記= 
昔は湧元の浦と言って温泉が湧いていた。今は絶え地名が残った。 
小高い丘の戦場「太平城」跡を見た。生い茂る草むらに埋もれていた。 
近くに天満宮の祠がある。侍どももこの御神を朝な夕なに祈り、海のかなたの光景を見ていたのだろう。 
太平山が真向かいに見え、「太平城」の名をつけた訳がわかる。 
太平城(脇本城)物語

太平城の跡



比詰

=真澄記= 
この山里に比詰五郎のいわれの村がある。この村の名は陸奥、出羽に多い。 

=AKOmovie記= 
写真左の比詰神社は、天正年間(1590年頃)に脇本城主・安藤太郎実季(のち秋田城之介実季)<脇本の編を参照>が戦勝祈願として建立したものです。


船川と「はたはた」
=真澄記= 
金川の羽立(はだち)という村を通り、船川(今の男鹿市)へ着いた。 
古い館跡がある。城介寛季に仕えた船川左近という人の城跡だ。 
11月ともなれば怒涛のごとく雷が鳴る季節となる。 
すると魚集(いわつめ)と言って、「はたはた」が寄ってくるのを網で曳いてとる。 
荒れる磯にひしひしと魚舎(なや)をならべている。はたはたが取れるころの空は荒れるに荒れる。「はたはた神」というゆえんだ。 
<ぶりこ>=真澄記= 
「はたはた」の孕んでいる卵を搾り出す。これを「ぶりこ」と言う。 
その「ぶりこ」に牡はたはたの白子を絞りかけて塩水を注げは、玉のようにかたまる。それを十ばかり縄につらぬいて、数珠の形にしている。 
磯部の岩間、あるいは藻くずの中に付着したものを拾いあげ、同じようにしている。

真澄:ハタハタのオス

真澄:ハタハタのメス

真澄:ハタハタ漁の様子

真澄:ブリコ拾い

真澄:ブリコ



増川・頭殿八幡宮

=真澄記= 
磯辺に宮君の御衣と太刀などを祀った頭殿八幡宮がある。 
享徳四年、安藤太郎平夜泰春が建立した大塔の宮の言う人を祀ったものと言われるが、詳細はわからない。
この塚からは黒塗りの木履が掘り出され、その裏側に歌一首あるが見えない。



椿の浦

真澄:椿の浦

=真澄記= 
椿の浦と言う所に中山という小さな磯山がある。椿ばかりが生い茂っていた。 
津軽の平内の浦も椿ばかり茂る磯山があった。同じ津軽の深浦の艫作(へなし)岬にも椿崎と言って荒磯の岩に椿を祀っている。出羽の八森山の浦も椿を呼び、磯山にびっしりと生い茂っていた。 
象潟町の三崎山にもあった。椿は海辺に生えるものであろうか。

今の椿地区



門前・五社堂

門前地区の遠景

=真澄記= 
小橋を渡ると萱ぶきの堂があった。飽海郡の落伏寺(山形県遊佐町)、陸奥の黒石寺(岩手県水沢市)と同じく自然石をたたんで坂としていた。 
一夜のうちに鬼が集まって築いたという話がある。 
五社と言って五柱の神が並び祀られている。建武二年(1335)には安部咸季、安応五年(1372)に高季が修理を加えたとある。 
五社堂の縁起>    <五社堂999の石段

五社堂への入り口



岩清水

岩清水

=真澄記= 
寒風山の麓に岩清水という面白い所があると聞いて、連れと一緒にでかけた。 
石畳のようなところに清らかな水が流れている。 
岸に岩がある。この岩の割れ目に八蝋蛇(みつおろち)という蛇が棲むと言う。 
夏には、その蛇を見たという村人もあるという。

岩清水



飯森村寶泉寺

=真澄記= 
飯森の館がある。この村の寶泉寺は円仁の開いたもので、昔は天台だったが、今は曹洞宗の流れをくむと、門の石に彫って、行き交う人に知らせている。 
日が傾いてきたので、脇本へ急いだ。 
(右は寶泉にある板碑)



払戸の埋もれ木
=真澄記= 
このあたりは谷地と言って、野原のような所のどこからでも根木(ねっこ)と言う杉の埋もれ木や、松・桧などの荒作りの角材とか、槻・けやきの根こそぎ倒れて埋もれたものが掘り出される。 
それを掘り起こして薪(たきぎ)にしたり、宮木を掘り出すと柱に使い、屋根をふくそぎ板にもすると言う。 
昔、雄物川がここから海へ出たものだと言う。まれに「漢来木」と言うものが雑木に混じって掘られることがある。これは「沈水香」と言って、たいそう高価で珍重されたものだと語られていた。

滝の頭(百川)
=真澄記= 
大岩が尾根から落ち重なって、その麓にささやかな堂がある。阿遮羅(あじゃら)王が祀ってあった。 
棟札に「別当箱井村尊重」とある。 
拝殿は少し下の方に二間ばかりのものを石の上に建ててある。 
沢山の石の間を水がくぐって流れ、堂の下、拝殿の板敷の下をほとばしる音がすさまじく聞こえる。

本内村
=真澄記= 
本は「ポン」、内は「ナイ」と読む。 遠い昔は蝦夷人が住んでいたのだろう。 
「ポン」とは「ちいさな」の意味であり、「ナイ」は「沢」と言う蝦夷人の言葉だ。 
山から流れ出る沢水が、いともあわれに思えた。

野石
=真澄記= 
この村に猿河という館があって、槌を神として祀っている。 なぜかはわからない。 
ここまで来ると、荒海の漁も一段落で、田畑を交えた生活となっているようだ。

五明光村(漬柴)
=真澄記= 
左手に塩水、右手に真水を見て進めば、五明光村にきた。 
むかし何でも獲る「雑魚漁」をしていたことから、「塵魚子(ごみいおこ)」が訛ったものか。語尾に「こ」をつけるのは方言のようだ。 
村に入ると、宇津木を束ね、これを薦に包んで湖の岸辺に綱をつけて置いておく。 
23日、34日のちに引き上げると2~3百あまりの小魚が獲れ、これを漁としていた。ここでは「漬柴(つけしば)」と呼んでいる。

芦崎

=真澄記= 
ここに姨(姥)御前の社がある。 
これは、手摩槌と言って、対岸の三鞍鼻の社にある夫「脚摩槌」を唱えて祀ったものだ。 
八郎太郎の伝説> 
また、ここは九郎判官義経がここから蝦夷へ渡ったと言う伝説もある。



浅内村の「賀須」
=真澄記= 
名だたる湖(浅内湖)のほとりの村だ。 
このあたりは柴を折ったり、つま木を切る山のない。 
人々は「賀須」といって土くれのような物を掘り上げて、これを乾かし焚いている。 
これは、平鹿郡の田村根子のたぐいであろう。

能代にて

米代河口

=真澄記= 
能代の着いた。サバ、いわし、スズキ等の魚商人に混じって、大勢の乙女が初茸、グミ等を売り歩いている。傍にグミの木の原があった。 
旧友の伊藤裕友に宿る。親翁が病に伏せていて、13日の晩にみまかった。初霜が降った。

能代の眺望