男鹿の寒風(門前から若美へ、大地震に遭う)

文化七年、五十七才の真澄は「男鹿の春風」で五城目町の谷地中を出発、芦崎(八竜町)、真山に登り、北浦に逗留します。 
「男鹿の鈴風(涼風)」では、北浦から男鹿温泉・入道崎を経て戸賀にいたりました。 
その後「男鹿の嶋風」鈴風では、その後塩戸浦から舟に乗り、島巡りをして門前に至ります。 

「男鹿の寒風」は、お盆を門前で迎え、脇本、若美町で正月を迎えます。 
このとき、男鹿の大地震に遭遇します。大変な死者も出た大きな地震でした。


門前と椿の白崎

真澄:増川の浦

=真澄記= 
八月十八日に門前の村(左写真)を発った。この浦に玉石があると聞いたが、磯波が高く拾えない。 

椿の浦に来て、広く高い嶽がある。きわめて白い。 
名を問えば、椿の白崎だと言う。 

増川の浦に来た。冨殿の社(菅大臣の祠)に詣でた。 
しかして、脇本より相川へ着いた。

増川の浦



地震  

滝川の町並み

=真澄記= 
九月十七日、楚村という所で地震に遭った。十八日も地震がおさまらない。二十五日、脇本浦の菅大臣の祠に詣でた。寒風山はうす霧に立ちこんでいる。 
二十七日、滝川でいよいよ大地震が来た。軒は傾き、人々は外に逃げ惑い、泣き叫ぶ。母は乳子を逆さにかかえ、梁が落ちる音・山が崩れる音がすごい。「命ここに死す」と木にすがり、竹の林に逃れている。

山田の滝川神社


二十八日、地震はなおもおさまらず、夜もすがら目を開いて明けた。 
二十九日、なおも地震は止まない。人が来て言うに「脇本・船越などは家々が皆倒れ、死者の数も知らない」と言う。 
寒風山は石山で、その色は青い。頂上も窪んでいるが、妙見山と同じだ。 
(=AKOmovie記= 真澄は寒風山が地震の震源と考えていたようだ。)

寒風山の地震墓標

<救済と供養>=真澄記= 
人々は皆仮家に住み、田畑もままならない。飢えに疲れている。 
奈良云々と言う人が来て、米を沢山施してくれた。 
公の御恵みも多く、十月ともなれば、寒風山のふもとに楚塔姿を建て、地震に死したものの亡霊を祭った。
(写真は寒風山の山頂付近の地震死者慰霊塚)

寒風山の地震墓標



安善寺村

安善寺の集落

=真澄記= 
ここに御嶽の神があって、円仁大徳の阿弥陀仏・観音菩薩・地蔵大士の堂がある。 
三岳の神として赤神山より遷したものだと言う。 
照日の神という祠に雷の社がある。湧出山の鬼を退治しようと坂上田村麻将軍の馬をつないだ松があって、鳥居が立っている。

安善寺



白魚とハタハタ(三森村)
=真澄記= 
三森村の目黒云々に泊まった。 
琴の海(八郎潟)の白魚が多いので、北浦のハタハタもそろそろだと言う。 
「船越の馬手のしろいをあるならば 北のハタハタあるが定」と唄うのも面白い。

鮪川の瀧頭
=真澄記= 
「男鹿の秋風」でも行った渋川(鮪川)の瀧の頭という所へ再び行った。 
地震のせいか、水が非常に多く、妖しいものであった。

なまはげ

真澄:なまはげ

=AKOmovie記= 
文化八年の正月は若美町の畠山家にいます。 
=真澄記= 
正月十五日の夜、囲炉裏を囲んでいると、角の鬼の面、海管の髪を振り乱し、肩箕の(けら)を着て、カラカラと鳴る箱を背負い、手に小刀を持って他人の家に入ってくる。 
これを「なまはげ」と言って、童は声も立てずに人にすがり、ものの陰に隠れる。 
これに餅をとらせて「ああ、おっかない。泣くな」と脅している。

なまはげ