勝手の雄弓(秋田市太平周辺、勝手神社へ詣でる)

1811年(文化5年)、真澄58才の書>


秋田市手形を出発、太平川沿いに、谷内佐渡、八田、目長崎を経て黒沢にある勝手神社に参拝した紀行文です。 

また、松原にある補陀寺にも言及しています。 

写生図としては、更に太平川を上り、皿見内、三内(山内)、杉沢、岩見、東村、鵜養まで続きます。 

更に鵜養から大又川に入って淵の写生図も多く残っています。


手形山本念寺

本念寺

=真澄記= 
蛇野・野崎を過ぎると西行軒という仏室が左の山にあって、手形山本念寺と言う。 
この寺の庭に阿仁の荒瀬川のほとりの佛名山源太庵という法師の石像がある。その法師は、もと名山源太左衛門という相撲取りで、人に聞こえた力士だったが、世をはかなんで一人出家し、ひたすら阿弥陀仏を唱えてここで終わった。 
この石像は、生きていた頃石工を呼んで作らせたものだそうだ。 
辛いことをいとわない相撲にあやかり、物事に逆らえない、乗り物に負けたくない人は、一升の蕃椒(とうがらし)を手向けて奉るという。



赤沼飲山亭

真澄:赤沼飲山亭

手形楢山を出発した真澄一行は蛇野を通って赤沼飲山亭跡に来ます。 
太平山を杯に映して酒を酌んだ藩主佐竹公の別宅も、今は太平山三吉神社里宮として大いに賑わっています。 

=真澄記= 
「岡のありて、縄曳はえたるよし。近き頃まで飲山亭とて、国の守の雪見殿のありつる跡なん」 
飲山亭縁起

現在の太平山三吉神社



谷内佐渡 石神神社

=真澄記= 
「太平河のながれゞては、牛嶋の村にめぐるとなん。」..「この橋踏みていなば、郡は河邊にいたるという。」.. 

時代は違っても、川は今でも牛島へ流れ日本海へゆったりととそそぎ、橋は河辺郡へと続きます。



柳田神社

=真澄記= 
「重る雲も残らず朝風に散るや葉月の柳田の里」とある。推古天皇の御霊を祭っている。 

まさに当時そのままのたたずまいを今でもみせています。 
路の不動の森も、大きな槻木(右:大銀杏)は今でも健在です。  
ただ、里氏が大事にしてきた社も、周囲の開発に追われ、そこだけが昔の名残を残すのみとなっているようです。 



龍淵山松應禅寺(八田)

真澄:龍淵山松應禅寺

昔は太平川がここを流れていて淵だったようです。 
松原村補陀寺の無等良雄和尚が山中に入り、岩うつ谷水の清き流れの場所で修行をし、開眼したそうです。
岩の頭に地蔵菩薩堂を据え「すみすつる山をうき世の人とは、嵐や庭の松に應ん」と、松に應ん(こたえん)の文字をもって寺の号としと真澄記にあります。
< 松應寺縁起 >  <補陀寺縁起

今の正応寺



嵯峨家(目長崎)

真澄:嵯峨家に伝わる宝物

目長崎村で「嵯峨理右衛門利珍という人のもとに、しばし休む」......とあります。 
柳田家と目長崎嵯峨家の二家が、鶴箇岡神楽の神事を行った家柄だったようです。(左が真澄の書いた嵯峨家宝物) 

後に「月のおろちね」の太平山登山の紀行で、再度立ち寄り、宿泊しています。

目長崎の嵯峨家



目長崎付近の神社

源正寺

真澄は目長崎付近を歩き、舞鶴ケ館、不動山昌泉寺、太平山元正寺(源正寺)、眞観山福命寺元廣院などを巡っています。 
さらに、嵯峨家で休息のち、寺内堀内で若宮八幡宮・二澤山正徳寺、平形という古柵跡にある熊埜山林清寺の長髪堂にも詣でています。  
太平の地名(舞鶴ケ館)>   <若宮八幡宮縁起

稲荷集落の稲荷神社



ここで、真澄の紀行文は終わっています。欠本かとも考えられますが、絵図は残っており、鵜養村まで続いています。
ここからは、真澄の残した絵図をもとにAKOmovieなりに解釈してお届けします。

勝手神社(黒澤)

真澄:勝手神社大杉

吉野の勝手神社を遷したとも言われる戦の神ですが、真澄の時代は子守りの神として崇められていたようです。 

左は真澄の描いた勝手神社です。今では道路も整備され太平・三内へ行き交う車で賑やかです。でも、勝手神社はそんな中、静かな佇まいを見せていました。 
勝手神社縁起

勝手神社遠景



明田・釜木薬師

二ツ屋富士山

真澄の二ツ屋村の絵図の説明に、「明田という岩山に山の神を祭り、名を富士山と言う。」とあります。 
たしかに明田には富士山があり神社がありましたが、そこは磯前神社の観音堂でした。 
立て札に磯前神社の別名が釜木薬師であるとの説明がありました。 
藩主佐竹氏の水戸からの移封に伴って常陸(ひたち)大洗の磯前神社をここに習合したものでしょうか。 
釜木薬師縁起

釜木(磯前)神社



真澄:皿見内(高橋) 

真澄:山内村 

真澄:鵜養村


皿見内

岩見山内

鵜養