平成15年7月19日「菅江真澄研究会」で、清水英明会員から真澄の「久保田十景」について研究発表がありました。
これは、その要約をまとめて紹介したものです。
真澄は文化十二年(1815年)、六十二歳で秋田久保田(秋田市)にありました。
雄勝郡を巡り「高松日記」「駒形日記」を書いた終えた翌年です。
久保田十景色は、「仮題」となっており、真澄は何かの資料として他の題で表そうとしたものかも知れません。
綾小路古梅(あやのこうじこばい) |
秋田市寺内・古四王神社の付近にあった古梅から眺めています。
道路左手は土崎の湊、右手は久保田城下へと続いています。
今の旧国道(旧13号)もこの頃は古四王神社への参道だったのでしょう。
「いにしえはことより梅多かりしとかや、、、茶店にて、梅の湯とて、梅仁を香煎に和し、道行ぶりの人に与うるも、久しき伝えとなん。」とあります。
今でも、寺内付近では、梅の実を砕いて茶に入れて飲む風習があるそうです。
三丸桜花(さんのまるさくらばな) |
佐竹久保田城三の丸、今の千秋公園北側の千秋トンネル付近の桜模様を描いています。
お堀に囲まれ、左上にある屋敷は久保田城でしょうか。
左下にはござらしきものを敷いて、四人ほどが花見をしています。
今はお堀も埋められ、道路も拡幅されて住宅地となり、この頃の面影はありあせん。
寶塔寺紫藤(ほうとうじむらさきふじ) |
八橋本町にある宝塔寺です。
藤棚がいく筋もみえますが、今はありません。橋は八橋の面影橋でしょう。土崎の湊へ続いています。
「遠く見れば瀬田の橋を見やる心地せらる。その棚の下に集いて、酒くみかわすも多かり」とあります。
両津山遠景(りょうつさんえんけい) |
秋田市寺内、護国神社付近から土崎湊方向の景色です。
中央の高い山が男鹿半島の本山、中央が真山、右手が寒風山でしょう。護国神社の石の五輪塔も見えます。
土崎の湊へ出入りする船も描かれていますが、現在は住宅が密集していて、見えません。
柴渡夕照(しばのわたりせきしょう) |
川尻新川、秋田刑務所裏手の新朝日橋も、昔は雄物川が流れていて渡しがありました。
これを「柴の渡し」といい、眺めの良さは格別だったようです。
長沼落雁(ながぬまらくがん) |
現在の明田付近、長沼の景色です。
昔この辺は大きな沼地で、久保田城の外堀の役目も果たしていたそうです。
それが次第に付近の百姓に埋め立てられ、明治に世に国鉄奥羽本線の開通によって完全に埋め立てられました。
遠くに見えるのは太平山、右手が明田富士山でしょう。
中央の社は釜木神社です。
水口蛍火(みのくちほたるび) |
泉水口付近です。
当時は旭川がこの辺を流れていて、水口には渡し(小菅の渡し)がありましたから、蛍は相当見られたことでしょう。
「最中の宵は、まことに宇治田なかみにも劣らぬばかり」とあります。
中央の社は天徳寺、佐竹藩主の菩提寺です。
大嶺秋月(おおみねしゅうげつ) |
手形赤沼付近から見た太平山です。
蛇野、赤沼、谷内佐渡は、久保田から太平へ向かう主要交通路でした。
また、赤沼は藩主の別邸「飲山亭」がありました。赤沼に映る太平山を愛でて酒を酌むことからこの名となったそうです。
今は赤沼は埋め立てられ住宅地や秋田大学付属病院、別邸は太平山三吉神社里宮へと変わっています。
泉河清流(いずみかわせいりゅう) |
手形からみ田付近から見た太平山です。
中央左に見えるのは、如斯(じょし)亭、橋は泉の旭川橋です。奥の集落は新藤田でしょうか。
如斯亭は佐竹藩主の別邸で庭園が有名でした。(写真右)
今は原型を止めるのみで、整備も限界のようです。
鳥海暮雪(ちょうかいぼせつ) |
冬の鳥海山です。
どこから見たものかは不明です。
真澄は象潟からも鳥海山を描いていますが、この絵のほうが鳥海山らしいという人が多いのもうなずけます。