みかべのよろい1(大館から森吉山へ登る)

文化2年6~9月 真澄52歳の紀行文です。 
7月に櫃崎(大館市)を出発、川井、上舟木(鷹巣町)をへて森吉山に登り、栩木沢へ下山、奥阿仁を巡り、阿仁川を舟で下り、川井に着きます。 
更に8月には薄井・仁鮒・切石を尋ね、川井から田代に山越し、小掛・仁鮒をへて薄井(以上二ツ井町)に泊まります。 
「みかべのよろい」とは、戸鳥内で山畑から出土した人面のような土器を見て、人面の鎧の土器、すなわち「頚(みかべ)の鎧(よろい)」と名づけたものです。 
ここでは、大館を出発して森吉山へ登り、米内沢までの旅を紹介します。


櫃崎(大館市)
=真澄記= 
ここの古い館に誉田の神を祀っている。この土地の形が飯櫃に似ていたので、通称としていたが、今では村の名前になっている。館の主は誰だったのだろう。 
東鳥屋、西鳥屋という村がある。これは鷹鳥屋といって、天正の昔八森山、能代等から鷲・鷹をとって秀吉に貢物をして、秀吉の御手鷹とした。比内は鷹屋とも言ったそうだ。

赤石・曲沢(大館市)

=真澄記= 
野山の初秋を見ながら「まがちや」なる村に出た。本当の名は「曲沢」というそうだ。 

近くの里で疱瘡を患う草刈女が、神社にお祓いに来た。 
巫女が中へいざない、移託巫女(いたこ)の様子で弓を打ち語り始めた。「昔、なにがしかの帝が疱瘡を患い、それを恨んで”草刈る野辺の山里に帰り行かん”と眺めていたら、たちまち夢の如くに治ったと言う。あなたにも、この歌を伝えるので、やがて露のように疱瘡の鬼が落ちるだろう」と言った。

    真澄:曲沢


舟木

=真澄記= 
小川の向こうに吉(葦)が沢という村が見える。下舟木という村に来た。昼なので、人々は水を飲んでのどかに休んでいる。しばらくして上舟木という所で日が暮れた。
次の日白頭山そ見に行く、「いどり越え」の坂を越えれば三の亘りという山里が見える。大黒森山、小黒森山などと楽しい景色だ。 
大橋矢櫃といって、巌を砕いて堰として田に水を引いた「段の沢口」がある。昔、七日市の長崎なにがしが、千引の石を引落として作ったという。

    真澄:舟木


羽立

真澄:大黒森・小黒森

=真澄記= 
羽立村と明利又村の間に浅利家の墓碑がある。田畑から掘出したという十あまりが立ち並ぶ。文字は剥げ落ち、わずかに梵形だけが残っている。 
あわれ、浅利の興亡。昔甲斐の国から陸奥に来て、この秋田に住んだと言う。城山高く、木々が生茂っている。ここを退き、独鈷村に行って柵を構え、扇田の長岡に出城を持つ頃、大保内権助に辱められ、その子等が権助を追って臼沢の山奥、奥見内のほとりで親の仇を討ったと聞いた。 
浅利初代よりここに住み、浅利山をいうのが訛って安加利也万多と言う。しかし、「墓碑も単なる噂」と言う人もいる。今となっては、石の字もそれとは見分けがつかない。 
浅利氏の由来

真澄:浅利が住んだ山



松沢の山から森吉へ

=真澄記= 
雨の中、黒滝を見ようと松沢の山に入った。「八杉の沢」に至れば炭焼きの煙が昇っている。堤口という滝のふもとに来た。猿の群れの声が聞こえる。 


七十過ぎの三右衛門という翁を案内に、更に分け入った。「若者には負けじ」と勇むが、老いぼれ風で大丈夫がとも思う。
それでも渓谷の木を渡り、巌をよじ登って、横たう大木・かづらをたどり、梢にすがって登る、深山だ。「舟木山はあれだ」と遠くを指した。 

峰を思えるところにある細道(山鬼の道)を言ってまた下った。「この下が里だ」と煙管をくぐらせて休んだ。翁はそのうちに眠ったが、大きなブナの朽木から大きな蛇が出て来て木の股に頭を据えている。身の毛もよだった。一人逃げ出す訳にもいかず、翁の目が覚めるのを待って山を下り、森吉村へ着いた。休みながら聞かせたら、「知らずに寝ていた。わかっていたら、この山刀でスパっと斬って肴として、美味しく酒が飲めたものを」と語った。 
天津場の村を経て、狹股(さまた)の橋を通って地主の吉田氏で一夜の宿をとった。

真澄:狹股(さまた)の橋



森吉山登山

=真澄記= 
<生土杉(うぶすな杉)> 
空堆(そらたい)という所を過ぎると「生土杉(うぶすな杉)」というのがある。昔大木だったが、心無い者がいて伐採して使ってしまった。それ以来、村に病で倒れるものが多く出たそうだ。村人は根に枝を手向けて山神を祀ったところ、朽ちた株に生い立って枝を垂れるようになった。人々は大殿を建てて山神祭を行ったと言う。 

<一の腰> 
一の腰という峰に登れば、男鹿の島々、八竜湖、能代の浦さらには秋田の山々が見えた。 

<森吉権現> 
岩堂の峰を登ると、少彦名の神を祀る森吉権現があった。「神の花畑」ということ、七草をはじめ、緩草、玉替、蛇苺に似た葉の草など一面に咲いている。 

かくて、前嶽をはるばると峰を伝って下山した。

真澄:うぶすな杉 

真澄:森吉山

森吉権現 

森吉山(阿仁前田から)



栩木沢(とちのきざわ)

=真澄記= 
栩木沢のいう村にきた。山賊半三郎という主のところに宿を借りた。保利巨というもので竹の明かりを燈して、場をくまなく照らして、食べて安らかに眠った。



埴輪<戸鳥内(ととりない)>

=真澄記= 
戸鳥内(ととりない)という所に来た。昔は蝦夷の村だったのだろう、山陰に「笑内(おかしない)」と言う所があることでも推察できる。 

粟、稗を作る山畑の開墾で、人面の陶(土器)を掘り得たそうだ。昔帝を葬った時は、人を生きながら埋めたが、後に埴輪を作ってこれに替えたと言う。この埴輪はそういった物ではなかろうか。 
以前、寒内(青森県)で見たものと同じ模様がある。




真澄:埴輪の鎧

<動石(ゆるぎ石)> 
中村と言う所に来た。動石といって、そっと触っても動く岩がある。 

<鉞(まさかり)石> 
また、沢の兜石は別名「鉞(まさかり)石」と言うそうだ。故を問えば、”昔、村の処女に通う怪しい男がいた。闇より出るので、益荒男(ますらお)が詰め寄ったが従わない。鉞を振り下ろしたら、男が倒れた。しかし、それは人ではなくて、大石だった。鉞の歯のあとが今も残っている。 

<打戸の村> 
ここに沼平という大きな沼がある。この沼にいる田螺はみな左巻きで、大きなものは石臼のようなものもあり、これを親螺として沼主としている。 

<笑内(おかしない)の村> 
芋形をした大きな石を石神としている。またぎ(又鬼)の長の家に伝わる巻物を見た。彼等が使う山詩(やまことば)も多い。獲物の肉を幸肉(さちのみ)、米を艸の実(くさのみ)と言う。


米内沢
=真澄記= 
暗いうちに出発して、舟に乗って大蛇岬、赤熊などの瀬を通って米内沢のけふ(鹿角)の路に至った。