天明五年(1785年)真澄32歳の紀行文です。
錦木塚(鹿角市)を見て浪打峠(二戸市)から南に向い、盛岡、花巻をへて片岡(江刺市)に至る紀行文です。
前年は、 越後から象潟・矢島を通り、西馬音内・湯沢へ到着、越年しました。
この年、阿仁から大館・鹿角と大移動をしています。秋田は通過して南部・津軽へと行きましたが、この時は再び秋田へ戻り、逝くまで秋田の地を遊覧しようとは、この時は思ってもみなかったでしょう。
<けふのせば布(毛布の狭布)の解説>
「南部織り」ともいい、いわゆる百姓の野良着でした。けふ(毛布)は鹿角地方一帯の郡名で、毛布の狭布は鳥の羽(当時は白鳥)を織り込んだものが上物とされました。
この反物は通常のものより幅が狭く、野良着として襟は合わせない仕立てでした。このため、お互いの心がしっくりあわない意味を歌にして、「けふの細布胸あはじ」と、世間でいい習わしたそうです。
鹿の角突き |
土深井の集落
=真澄記=
南部鹿角郡土深井を出て岨路を行くと、木が生い茂る山陰からはらはらと鳴る音がする。これは「鹿のなづきおし」と言って、雄鹿同士が押し合い、角と角を打つ音だという。
「いずこか」と問えば、雄鹿ふたつが木立より出て奥山に去って行った。「この山道は鹿が多い。名さえ鹿角と言う。」と言って笑った。
秋田/南部の関の跡
けふ(毛布)の渡し |
毛布の渡し(向こうが錦木)
=真澄記=
川の水が減っていったので、渡し舟がでた。この川を毛布の渡しというとか。古川という村(十和田町)で錦木塚を尋ねると、稲刈りをしていた女が田の中に立って、鎌でさししめして、大杉が立っている彼方だと教えてくれた。
一里塚の榎
錦木塚 |
毛馬内の錦木公園
=真澄記=
年を経た杉の木のもとに、ぬるでの木、桜の梢、かえでなど、すこし紅葉してきた木々の中に、土を小高く築きあげて、犬の伏しているような形の石が据えてある。これが有名な錦木塚である。
<錦木塚由来>
錦木塚
花輪 |
花輪駅前付近
=真澄記=
花輪の里に出た。紫染る人がいる。これを染めるには、必ず木の灰をさすと言う。
何にも「こ」をつけて言葉を言う。可笑しい。
花輪遠景
大里 |
大里の集落
=真澄記=
大里村に来た。遠い山のかなたの山の尾ごとに雲が湧いているのが見える。銅を葺いているのだとか。(尾去沢鉱山であろう)
福用山大徳寺に遊んで、恵音という僧としばし語らった。帰り道、高年の翁の葛籠にあった錦木山観音寺の由来記をみせてもらった。
大里から尾去沢方面
小豆沢 |
大日如来の堂
=真澄記=
いかめしい大日如来の堂がある。いわれは、、、
だんびる長者の寺「養老山喜徳寺」は古い寺で、運慶の作という五大尊がある。前の大杉に養老の昔が偲ばれる。
前の川の菱床橋は朽ち果てて、名だけが残っている。この橋は昔天狗が渡ったとして「天狗橋」と言ったそうだ。
<真澄のだんびる長者物語> <だんぶり長者の民話>
だんぶり長者の「姥杉」
湯瀬 |
湯瀬温泉
=真澄記=
湯瀬といって湯桁が三つ並んでいる。ここに湯あみして泊った。
湯瀬温泉
<またぎ>
山刀を腰に差している翁は万太幾と言って狩人の名だ。話すと昔は山という山を歩き、他人の金を盗る山賊のような者だったらしい。「その報いに、今はこのような寒い夜でも赤い薄布で、しし・ましを撃ってはかない世を渡っている。」と昔の行いを悔い、更に「この報いは子孫の代まであるものか、」と煙草のくゆらせて言っていた。
<糸宿>
女どもが苧筒を持って集まっている。これを糸宿という。左あるいは右の膝をあらわにして、車座になっている。女の身のある様と思えないが、ここでは里の慣わしとみえて、人は見もしない。
=AKOmovie=
真澄は更に曲田(安代)、二戸と進み、南部の遊覧となります。
このあと津軽へと足を伸ばすことになります。