かすむ駒形<2>(平泉中尊寺)


天明5年(1785年)鹿角市から二戸市を経て江刺市にきた真澄は、前沢の鈴木常雄を訪問します。 

また、翌年は徳岡(胆沢町)の村上良知の家で新年を迎え、中尊寺に詣でます。また3月には一関市の配志和神社に詣で、平泉方面に遊びます。 

<2>では胆沢徳岡を出て、中尊寺、一関を紹介します。 


遠く蝦夷の旅を志した真澄ですが、天明の大飢饉を経験し、大勢の民が苦しみ、家畜や病人まで食べ、路傍に朽ち果てる髑髏を見て蝦夷行きを断念します。3年あまりの岩手の生活をしながら再度蝦夷への旅立ちの時期を待ちます。このときの周囲の人々の親切は心に響くものがあったことでしょう。


鶴形と繭玉創花
=真澄記= 
20日、今日は平泉の常行堂に摩多羅神の祭りがあるというので出かけた。徳岡の上野を出ると早春の気配がする。 
田面の雪の中に鶴形を並べてある。真鶴・なべ鶴・餌ばみ、立首など、どれも生きているようだ。 
これは昨秋、稲刈り後に鶴形を作って立てたもので、この風習は昔及川某という武士が始めたものだと言う。及川家は今もあって、この家の鶴形には今も多くの鶴の群れが舞い降りるという。 
鶴形を彩ることを「にごむ」と言い、色を塗った上に大豆液(まめご)と言うものを塗ると、激しい風雨露霜や氷雪でも腐らずに残るそうだ。 
田の畔(あぜ)に柴で作った小屋の中に入って、鉄砲で撃つ。秋は鶴形が多く、今は鵠(白鳥)形、鴨形、雁形なども作っている。鳥も慣れて来て、昔ほどは降りなくなったと言われた。 

前沢になった。このあたりの家々に、「繭玉」と言って、餅を玉にして水木の枝に刺して梁に立てている。いろいろな種類の木の枝に刺して、ひしひしと並べている。 
また、青小竹を3尺ばかり切って弓のようね曲げ、上に白玉を差して、創花と一緒に門々に立てている。 
これは15日の行事だそうだが、未だ残っているのだそうだ。

衣川の由来

=真澄記= 
東に大桜の郷がある。大桜の枝が雪をかぶっていて不動明王が祀ってある。 
秀衛の時代、束稲山に千本の桜を植えたそうで、「この桜はその種」と言う。束稲山の千本桜は、北上川に散れば雪が降る如くで、秀衛は北上川を「桜川」と名づけ、今日の芳野川にも劣らないほどであった。 
今の束稲山には桜はなく、中尊寺近くの小川を桜川と呼んで昔の名残を残すのみとなっている。


瀬原にきた。ここは小松が館という安倍兄弟が住んだ「瀬原の柵」があった。 
衣川を渡った。昔は多くの兵が討ち死にし、水に流れたそうだ。このとき不思議なことに武蔵坊弁慶だけが川上に流れたと言う。


衣川の由来> 

この衣川の源に「清浄が滝」(今は今は「障子が滝」)いう大きな滝があり、自覚大師がこの滝で袈裟衣を洗ったと言う。それよりこの滝を「衣が滝」、その流れの末を衣川と言うようになったそうだ。 
また、安倍貞任が命を惜しんで落ちた時、18歳の妻は夫の無勇を嘆き、稚児を抱いて衣川に入水したと言う。安倍貞任の居城の堀は、衣川の水だったそうだ。

大桜の社

大桜の公園

衣川・ここで多くの兵が死んだ



中尊寺

=真澄記= 
<中尊寺> 
中尊寺は鎮守府将軍陸奥の守藤原秀衛の頃、白河の関から外ヶ浜(陸奥)まで千本の卒塔婆をさして、その中央にあたるとして「中尊寺と称した。真名を「弘台寿院」と言う。 
開祖は円仁大師(自覚大師)にて、嘉祥3年に開いたを言われる。ここに白山神、日吉神の2柱を祀って鎮座させた。 
4月の節句(白山神祭)には、七歳男子を馬に乗せて飾り、白兎の作り物を持たせる。白兎は従者で、神の使いと言う。


<経蔵の宝物>
経蔵には、立獅子に乗った文殊菩薩・獅子の手綱を引くのは浄明居士・函をささげ立つは善財童子、仏陀波利、閻魔王など、は稀有の宝だ。

藤原清衡が寄贈した経典は、紺紙に一行は金泥で、一行は銀泥の文字で書いたものだ。(紺紙金銀字交書一切経) 、基衡の一切経は、同じ紺紙に金泥の文字だが、いっそう文字の色がつややかだ。 

また、婆粉紙と言って、黄色梵本の経がある。これは秀衡の寄贈だ。いずれも函には螺鈿や、大蛇の歯、水火の玉がちりばめてある。

中尊寺

紺紙金銀字交書一切経(資料)

文殊菩薩(資料)



金色堂

=真澄記= 
金色堂、それは俗に「光堂」と言う。天仁2年春清衡が建立したもので、七宝荘厳の巻柱、扉の光、長押の螺鈿など皆素晴らしい細工だ。 
その中に観音菩薩、姿勢菩薩、地蔵菩薩の三尊が立ち給う。座の下には藤原の清衡の棺がある。保元2年3月19日逝去。 
左の菩薩の下には秀衡の棺がある。文治3年12月28日にみまかった。 
右の菩薩の下には、秀衡入道の棺がある。文治3年12月28日逝去。また、入道の棺には和泉三郎忠衡の頚桶を後で入れたと言われる。


この3代の躯(むくろ)には羊の脂肪を塗って巴牟邪(ほむや)と言うものを棺に詰めて。沙羅布(さらふ)という布で包んで封じたと言う。 
年を経て布も朽ちても、「棺開けば、冷たい空気が立って目に入って盲目となる。」との伝えで、誰一人手を触れる者もいない。 

清衡、秀衡、秀衡の太刀があるが、飾りもない。建武2年春の大火で、堂・社・僧房院残りなく焼けて灰と帰した。しかし金色堂は焼け残り、経堂も屋根のみ焼けたが、中は残ったと言う。 
弁慶の短刀と言うものがある。肉厚で、山賊の山刀のようで、昔京都で見た破石刀のようだ。 
弁財天女人堂に金光明最勝王経の曼荼羅十巻がある。みな金泥で書いてあり、目にもあざやかである。


弁慶が果てたという中の瀬は、今は畠となっている。 九郎判官の館跡は高館と言う。武蔵房弁慶や兵が居た館跡は皆畠となって山賊の住居となった。義経堂に登ろうと思ったが、雪が深く断念した。 
道の傍に八花形という国衡、隆衡の館跡がある。小堂があってその中に大きな鉄塔がある。秀衡の妻の髪を納めてあると言う。

金色堂(資料)

金色堂(資料)

弁慶が果てた衣川も今は

高館の義経堂



毛越寺

=真澄記=   <毛越寺縁起> 
天台宗で数多の堂があり栄えたが、元亀2年の葛西でほとんど消失し、今は礎だ けが残る。 
しばらく廃れていたが、鳥羽院の勅命があって、藤原基衡が再興した。 
舞鶴が池にも今は雪が積もっている。「柳の御所」は、清衡・基衡の館跡で、昔 江刺郡の豊田屋敷を移築したことから「豊田館」とも言われたそうだ。 
秀衡・泰衡の館は「加羅楽(からら)の御所」だったそうだが、人は皆「からの 御所」と呼んでいる。 

また昔、泉酒をして豊酒が湧いて出たことがあり、「泉の御所」もあったそうだ が、今その場所は泉崎と言う。

正月のこの地方の歌に”泉酒(いずみざけ)が湧 くやら、古酒の香(か)がする、妾(おなめ)持ち殿かな”また、”今年酒が湧 くやら、去年(ふる)酒の香(か)がする”とある。

毛越寺と鹿踊り

「柳の御所」跡

舞鶴が池


観自在王院の哭(な)き祭り

<4月の泣祭>
花立山という山がある。それは、基衡の妻が身まかった時、花が好きだったとし て、棺を花で飾り、山を花で彩って埋めたと言う。 
この妻は阿部宗任の娘で、和 歌に優れ、木草花をたいそう愛でた人だという。 
今も4月20日の命日には、僧が沢山でて葬式を真似、泣きはらして数珠を振り 、幡を立てて、天蓋・法螺貝・梵唄を歌う。 
これを「4月の泣祭」と言う。この 日は、内容を知るしらず、地域の人も僧と共に経を唱え、金鼓を鳴らして、声が 止むまでよよと泣くと伝わっている。

基衡の妻の墓


高館の義経堂

<義経の遺跡>
義経の御館は高館と言って、かなり高い所にある。 

文治5年閏4月29日、九郎判官「これまで」と怨たる一言を発して妻子共に 刺し貫き、その太刀にて腹をかき切った。 
位牌は、法名「通山源公大居士」と彫って、衣川の雲際寺に納めたと言う。

高館から望む北上川と束稲山


<義経の最後> 
清悦物語高館落のくだりに、”判官、兼房(増尾兼房)を呼んで「今は自害の時 」と仰せあった。 
兼房が「見方は残らず討ち死に、御妻子も今ご自害な っさた。」と告げると、義経は「今は心安し。」と言い、御坪の内の岩に腰を据 え、金念刀で御腹を十文字に切った。 
兼房は「定めなれば。」と進み出て、御首 を討ち取り、兼房も腹十文字に掻っ捌いて、腸(はらわた)をつかみ出し、義経 の首を我が腹の内に押し隠し、衣を巻いて息絶えた。近習二人が館に火をかけ、 3日3晩戦って高館の御所は落城した。 
この時、衣川の水は3日4日赤く染まったと言う。 
義経の最後異聞


田楽舞
=真澄記= 
今日は平泉の摩多羅神の祭を見物するので、暗いうちに出かけた。摩陀羅神の御堂(常行堂)に入ると、宝冠の阿弥陀仏がいて、この仏の後ろに、秘仏として摩陀羅神が祀られている。 
摩多羅神は、比叡山にも鎮座していて、実は天台の金比羅権現の事だとの説や、素盞鳥尊(すさのおのみこと)の事との説もある。 
田楽舞