高松日記(雄勝から泥湯・川原毛温泉へ行く)

文化十一年(1814年)真澄は秋田県雄勝郡の板戸村から山中に入り 川原毛温泉、泥湯温泉に遊びます。 


ここは今でも地獄谷が広がり、自然の温泉や渓谷美をたたえるところで、真澄も紅葉と共に十分堪能しています。 

(本来の目的は藩から依頼された地質調査のためだったようです。) 


AKOmovieも以前川原毛・泥湯は旅したことがありますが、真澄の意を汲んだ旅ではありませんでした。今度再度の旅で、紅葉の写真とともにアップしたいと思います。


雄勝郡・板戸村

=真澄記= 
曾我吉右衛門なる翁、年齢は七十で男子二人、孫七人、曾孫三人もいるが、老いたる様子もなく丈夫(ますらお)の振る舞いである。 この曾我の翁を案内に頼んでこの村より山路に入った。 (「俵渕」:当時この付近まで川で、道は上のほうだった。) 
<山路>=真澄記= 

曾我の翁の祖先は陸奥の桃生郡より来て、十二・三代を経ている等と語らいながら歩いた。 

大森山を右に見つつ、種苗池澤(たないけ)澤という所の山道を登り、仁左衛門澤というは紅葉がことに澄みわたってまばゆく、見捨てて歩くのももったいない。 右に釜の澤(また、釜穴とも言う)所があった。ここも紅葉が深く、目を留める山路である。 

鳥屋場森の梢も色深く、言うべき言葉もない。一つ山を越えれば、紅葉はまた格別なものである。

真澄:板戸村

真澄:板戸村

板戸村付近の「俵渕」



高松の荘

=真澄記= 
中山という所を分け下れば高松の荘なり。麓に村があって坊澤と言う。昔坊主の跡だそうだ。傍に山神、稲荷が神座している。 
左に見下ろす谷底に酢川の水が流れている。 


=AKOmovie記= 
今の酢川は水量も少なくなり、南に流れも変わったようです。 
左は整備された高松道路、右上はかつての高松の庄の面影を残す「オノエヤナギ」です。今でも旅人を見つめているようです。


三津川村(三途川)

=真澄記= 
三津川村に来てある家で休んだ。外に出れば、前森山、雷の倉など名のある山々が高い。 
そこらに道祖神が座り、この社に石の陰元(めのはしめ)の形を沢山据えている。おかしいと見ていると、曾我の翁の微笑んで立っていた。 
三津川(三途川)縁起



川原毛

=真澄記= 
八幡地獄と言って、火井二つあって高く燃え上がる。その火の色白く、風に鳴り響いて冷たく恐ろしい。 
屏風石、染屋の地獄、ばくろうの地獄など、地獄地獄を巡り巡って、地獄の山中も日が暮れた。 石硫黄を掘る小屋が軒を並べている。その長の家で一夜を乞い泊まった。 
川原毛


泥湯温泉

=真澄記= 
宿を出て、噴音轟く大釜を通り、苗代澤、荒川と進んで泥湯の温泉に着く。前晩降った雪が溶け、笠も衣も木々の雫にぬれて身も重く、歩くこともままならないので、曾我の翁を呼べば、翁も疲れて休んでいる。まさに蓑も笠も紅葉が散りかかっているようである。
<AKOmovie> 
たどり着いた泥湯温泉は真澄一行にとっていかほど心地よかったことでしょう。  <泥湯温泉



桁倉沼

真澄:桁倉沼

=真澄記= 
市籠澤、桂澤と言う小流れを行って菅野に出た。 
右に桁倉という湖水がある。 
西には苔(こけ)沼と言う大きな沼があり、水は枯れて野原のように見える。しかしところどころのくぼ地に水が残っている。これも子安に流れ出る池だ。

桁倉沼


真澄:桁倉沼

丘一つ越えて下ればまた田螺沼という湖水がある。桁倉の湖より水の色が緑で、深さは計り知れない。 

 

桁倉沼> < 田螺沼

苔沼



上新田村
=真澄記= 
日も傾く頃、上新田村に至る。本名は兜野新田と言う。清水か澤という地の杉群に山の神がある。
家はただ三戸、そこらにある普通の山里だ。日が暮れて、藤原藤八と言う家に宿を借りた。 
次の日は足が痛み、休んだ。村ではキノコを沢山乾していて、それを汁草、漬けて鮨とし、香物として朝夕人に勧める。かくて今日もここで暮れた。

板戸村到着
=真澄記= 
朝山の鳥の声で起きた。兜野を立って兜岩山の麓を通り、子安へと東へ曲がりくねりながら下る。 
山の陰に袖野澤(外野澤)という所があって、家二件あったが、昨年の野火で焼けたそうだ。 
かくて若畑村に分け下り、桜坂を越えて坂戸村三浦氏のもとに着いて暮れた。