文化12年(1815年)真澄63歳の紀行文です。
1月に「雪の出羽路雄勝郡」編纂のため柳田(湯沢市)に滞在していた真澄は、3月にいったん久保田(秋田)へ帰ります。
ある日、川反の五丁目橋から広小路を通り、久保田(秋田市)の山の手の桜を見ました。これはその時の様子で、真澄は大変愛でています。
=真澄記=
やよい(旧暦3月)も半ば過ぎ、山の手の桜が今盛りだ。
花見たさに心あわただしく外に出たが、人々も群れて浮かれている。
宵まで鼓を打って酒を飲み、酔いしれている。耳をふさいで帰る人もいるが、やがて散る花のあけぼの。路の筋々を皆通っている。
私もたしかな童を道案内に、路を巡った。
五丁目橋 |
五丁目橋から旭川を見る
=真澄記=
五丁目橋(今の川反五丁目橋)へきた。
旭川を渡れば橋の左の方の川岸に柳が高くびっしり生い茂っている。
中に米倉が立ち並んでいる。その中に「うば庫」と言って、ひときわ古い米倉が一つある。 米倉の長のようだ。
<お試し米>
老舗の料亭「濱の家」
亀の町 |
=真澄記= 陸奥の津軽にも亀の甲という町がある。 左手に古河町がある。「古河の底のこいじに在りと聞く、亀の甲のかふをも知らせてしかな」との六帖の歌を思い出す。 |
明徳館 |
久保田城址穴門の堀
=真澄記=
上根子屋(うわねごや)町に来ると、明徳館といういかめしい学校が建っている。
沢山の文庫を置いている。
明徳館跡の図書館
広小路/手形谷地町 |
手形谷地町
=真澄記=
広小路を経ると手形の庄だ。谷町(やちまち)という所の屋々の後ろは、山の手に咲く花が屋の棟越しに見える。
谷地町の秋田大神
山の手の桜 |
真澄:三の丸桜花(久保田十景)
=真澄記=
山の手に来た。ここを山の端とはいかなる由か。山のでと、山のでは等と方言で言う。
岡弥重郎、梁此面、岡健蔵など言う軒を分ける中垣に芳野桜を沢山植えている。
屋戸の尻、小堰にも桜が植えてある。
小堰の流れは芳野川などと言っている。
また、この山の手を芳野山とも言っている。それは芳野桜の山という意味だろう。