笹の屋日記(秋田久保田の梅津家に滞在)

文政五年(1822年)真澄69歳 

《久保田の落穂》を完成させた真澄は、梅津家中谷敷の土屋琴斎方にいました。 
11月には同屋敷の伊藤鶴斎方に移り、片ひさしをかけ「笹ノ屋」と命名します。 

また、12月には日記、図絵集など五十一冊を明徳館に献納し、《笹ノ屋日記》と命名しました。

の年は久保田大火があり、200戸が焼失したそうです。 
翌1823年(文政六年)、真澄は笹ノ屋で新年を迎え、古四王神社に参拝しています。 
右の写真は、秋田市旭南にある梅津家下谷敷の「笹の屋跡」地です。