牧の冬枯れ(奥戸・大間から田名部・恐山を巡る)

 寛政4年(1792年)10月~12月、真澄39歳の紀行文です。

2年間の蝦夷(北海道松前)の旅を終え、大間の奥戸に着いた真澄は、佐井・大間・大畑・田名部を経て恐山を巡ります。冬の下北の厳しい旅でした。

 

=真澄記=

10月、松前にてずいぶん風待ちに日々を過ごした。ようやく良い風が吹いて船に乗って下北半島へ航路をとった。

振り返ると函館が遠くに見えた。この島(蝦夷)に再び来るのはいつのことであろうか。

波は穏やかで、旅人は飲めや歌えと船べりを叩いて囃している。

南部も近くなって港の光が見える。奥戸(おこっぺ)の港に着いた。


奥の牧

=真澄記=

佐井に行こうと海岸を歩いた。多くの馬が群れているのは牧(牧場)が近いのだろう。山麓や田面に柴垣を高く張り、枯草、小笹、木の根を頬張っている。

陸奥に牧は13野あると聞く。ここには二つの牧(大間の牧、奥戸の牧)があり、まさにここのことだ。

 

<材木の里>

材木という所がありここの石はみな柱のようだ。これを船に積み、なたは蔓の綱を付けて宮木等を引くようにして各々で使っている。だから村の名になったのだろう。<材木石物語


佐井/矢の根森(箭根森)八幡宮

佐井村の箭根森八幡宮

=真澄記=

佐井に出た。丘を小佐井、港を大佐井と言う。弁財天がある。

自性院清水寺前の川を渡って矢の根の森(箭根森)に登った。磯輪に石垣がある。昔源頼義の君が武蔵の国の鈴ヶ森を八幡を本宮とし、岩清水をここに遷し祀られたという。今は草木茂りしるしも見えない。

箭根森(矢の根)八幡宮縁起

 

<願掛け岩>

大佐井の海で出た。矢越・磯矢と言って半島がある。まさに頼義の頃の風景だ。

材木石物語



中山越え

=真澄記=

大畑に行こうと、中山越えという小路を進んだ。大間の浜道もあったが山越えを選んだ。

小奥戸という昔の里にでた。柵を巡らす牧の中に馬がいる。その中を山の奥へと進む。

奥戸の馬は右耳を切る、大間の馬は左耳を切って春の取り入れの時の印とする。

母馬に駄馬が多いので良い雄馬を一頭置き、子を産ませる。その他の雄馬は里に売ると言う。


下風呂/赤川

下風呂温泉街

=真澄記=

下風呂の出湯に「大湯」「新湯」と二つの温泉がある。温泉が二つある里は珍しい。


<赤川の里>

山川の水が赤い。昔、頼義公が七里谷の鬼を矢で射て兵に切り伏せさせた時、血の付いた太刀を洗った時から赤川と言う。

赤川の里の由来

大赤川付近



大畑・田名部そして恐山へ

=真澄記=

<羽色の材木山>

羽色のヒバの荒山から宮木を切り出している。過ぎてきた下風呂の海岸に「札石」といって何か書き付けたような石や、血散浜の岩もあって面白いと人足が教えてくれた。通り道が違って見られなかっのを残念に思った。

<正津川村>

正津川と言う恐山から流れる川がある。昔は「三途川」と言ったそうだ。慈覚大師の作という優婆像が流れてきて祀っているという。

<関根村>

昔はここから恐山に行ったという。今は田名部の道になっている。ぬかるみに板を渡して道としている。

<女館>

昔蝦夷の女がここに住み着いていたという物語がある。

<田名部(むつ)にて>

雪が降り続いている。この里の習いで、商店はひさしを広く作って軒先だけで人々が行き交うようにしていて便利だ。

大畑の正津川

廃線の大畑線踏切(関根)

女館のお屋敷

商店街のひさしの通り(資料)



恐山

冷水

=真澄記=

<宇曽利川村>

矢立の地蔵がある。杣山賊が斧や矢を供えて祈ったらしい。冷水という清水があって雪に凍っていた。

 

<三途の橋>

宇曽利山湖がある。昔はここで牛馬を止めるため丸木の小橋を渡らせた。鬼石というのがあって見ている。罪のないものだけが渡れるという。罪深いものはここで待っていたそうだ。

三途の橋


宇曽利山湖

<宇曽利山湖>

湖の高岸の東に岡があって、雪深い向こうにはつげ・蝦夷ツツジ・檜・葛が茂っている。

 

<菩提寺に泊まる>

寒かろうに能を舞ってもてなしてくれた。薪の火が高く燃えて、軒端の雪を溶かし、玉水の音が聞こえた。夜は鼠の音がうめいていた。

本堂の額は唐の僧侶悦山、観音堂の地蔵は円空の作仏であった。

菩提寺


<地獄・地獄>

硫黄が燃えて、なまこの地獄・箸塚・修羅道・金堀り地獄など雪の下に埋もれている。胎内潜りの崖も雪が深く、今は行っていないと言う。

五智仏の堂、大坑内・小構内、屏風岩がある。湖の端を周り、極楽浜・漁師地獄、百姓地獄、血の池、八幡地獄、賽の河原・・・塩谷地獄というのは石の上に塩が積んであり、人々はこれを舐めて薬にしている。円仁の座禅石、舎利浜、経塚などなど雪が深くて全部は見れなかった。

 

冷の湯、古瀧の湯、薬師の湯、山陰に行けば花染の湯と言い薄くクチナシ色に湧き上がる湯、奥山には新湯とというのもあるそうだ。

湯あみの人が沢山いて、便所も少なく皆あちこちで小便をしている。真っ白な山に雲がかかるように石の間から湯けむりが立ち上っている。

湯あみの人は小金、脇差、金物を煙草の葉でくるむ。そうでないとみな朽葉のような色になってしまう。



田名部(むつ)にて

爪籠わらぐつ(資料)

=真澄記=

風が吹き雪が降る。家々では「爪籠わらぐつ」で門毎に雪を踏んでいる。

サンゴウ・マンドウという門付けも出入りしている。

70余法師、白麻の袋を持って杓子の水を空に打ちやり、声高く何やら叫んでいる。どこから来てどこに行くのだろう。家の門前に来れば米を持たせるけれど、多ければ返しているようだ。

 

海祥山慈眼寺、万人堂という庵を見た。

万人堂


松前から船が来て、「寒かろうから」と船人に託して綿入れが届いた。うれしさの余り夜更けまでこの衣を着て過ごした。

翌日、子供たちが集まって雪投げをしている。通りかかる僧の頭に当たっても楽しそうである。


<正津川>

正津川(三途川)の優婆堂を見た。慈覚大師の仏を祀っている。平等庵の地蔵尊の左に二尺ばかりの熊を置き、黒い麻布を掛けている。

道で出会った正津川の老婆のすすめで、老婆宅にやっかいになった。食事が終わり、たき火のほとりに夜の更けるまでいると、老婆はひえしとぎを焼いておしきに盛って出してくれたが、欲しくないので食べずに語っていると、「さぞ、汚く思うでしょう。ふとんもたいそう薄い、寒さをがまんしてください」といって寝かしてくれた。


<大晦日>

田子村の長から粟餅。ウサギの料理などを頂き、濁り酒などを飲んだ。御傳馬御切手というものを買い、事の始めとなすとか。

夕方近く「かいしき」で雪をかき馴らして門松を立てる。

御霊に飯奉るころ、子供たちは外に出て、門々の雪の上にたてた樺の木の木皮に火をともし、これをまつ(照らす火)として、いくどもたく。これを「さいとりかば」という。まさに幸(さい)取りであろう。