梅の花湯日記(古四王神社向かいの茶屋)

文政6年(1823年)真澄70歳頃の記述でしょう。 

この頃真澄は久保田(秋田市)にあって、旧友と語らい、市内の名所を散策する日々を過ごしています。 
古四王神社の宮司に身をよせ、親交をあたためました。後逝去したあと、ここに墓が作られたのも、この頃のことがあったからだと思われます。 

「梅の花湯の記」は、古四王神社の向かいにあった茶屋が梅茶を出したことから、記述されました。


=梅の花湯の記= 
秋田の郡、寺内の里の清水の湧く池田のほとりに、「鳥梅の花湯」あるいは「梅か香」というものの店がある。


天平の頃、出羽の柵をこの秋田の村の高清水の遷し置かれた所である。 
また、延暦の世には、坂上田村麻呂の蝦夷征伐の拠点として、高志王(古四王)の神霊の宮を作り、あがめた所でもある。 

その後この里は栄え、小路には梅の園があって、都人までもが集まったと言われる。
花の盛りを好み、歌を作ってたしなみ、湯を召した。 

ある時、春風が吹いて梅がはらはらとなびき、花が曲をひくように落ちた。 
「あな面白や。」と見ていると、陶盃の中に梅の花びらが一枚散り落ちたのを見て、都女が、「この湯を飲みましょう。この梅の花湯こそ、身も心も清まるでしょう。」と言ってそれを奉った。 
人々はみな湯に梅の花を入れて飲んだ。と伝えられる。


その後、ここに宿ができ、往復の旅人に梅の花湯を振舞ったとされる。 しかし、この宿も天正の頃までで、今は茶屋となっている。 
梅も乏しくなり、梅の花も路に散らなくなったことから、「湯の粉」と言うものに梅の実を砕いて入れ、「梅の花湯」とも「梅か香」とも呼んで客に振舞っている。 

人毎にこの茶屋を「梅湯の茶屋」と呼んでいる。最近は、軒に藤を植えたりしているので、「藤茶屋」とも呼んでいる。

この「梅の花湯」は人々の心身を清め、汚れを止めると言う。 

古四王の神社の詣でた人は、ここで休んではこの「梅か香」を飲んで、いみ竹の「忌み」という事もなく、よろず願をかけて縄をしめたと言う。

古四王神社

秋田城址

寺内の高清水