月のおろちね<1>(秋田市から太平山に登る)

おろちね(迺遠呂智泥)には「月のおろちね」(月迺遠呂智泥)と「雪のおろちね」(雪迺遠呂智泥)があります。 
共に文化9年(1812年) 59才の紀行文で、太平山について記されたものです。 

「月のおろちね」(月迺遠呂智泥)は、7月に秋田市寺内を出発、天徳寺・濁川・添川をへて仁別川を上って吹切野へ出ます。

山越え後八田を経て目長崎に至って、嵯峨家へ逗留し仲間と合流します。 
黒澤村を通り、山谷村から太平山へ上り、木曾石、柳田を経て下山しますが、 <寺内が渓や< ひる子物語 >、<相撲取り>など、土地の言い伝えも書かれており、読者を夢中にさせます。 

 

「雪のおろちね」(雪迺遠呂智泥)は、雪が降ってから太平山の山麓を歩き、添川村や鍋倉峠から見た冬の太平山を書いています。これは写生図のみで、紀行文はありません。 


寺内・古四王神社

出発は、寺内。古四王神社に参拝してのことでしょう。 

古四王神社は、坂上田村麿の遠征当時、出羽の国府が置かれた当時の守り神で、笹の屋日記(文政5年1822年)にも尋ねています。 
この近くには護国神社があります。



水口・白幡神社  

真澄が訪れた当日祭りがあったようで、白妙の布の御旗をおしたてて、人々が石段を登り、たいそう賑やかな様子でした。境内で勝ち負けのバクチなどで声を叫んでいる者もいたりしたようです。 
このあたりは、雄物川が流れており、「小菅野の渡し」がこのあたりにあったようです。 
小菅野の渡し


真澄:水口・白幡神社

真澄:水口・白幡神社

真澄:水口村



天徳寺詣で

真澄は、白坂山の麓の大寺、殿様の菩提寺「天徳寺」に詣でています。 
この日は御霊屋参りの日で、男女、老いたるも若者も群れていて、道もゆっくり通れない状態のようでした。 
南の保戸野のあたりまで人が並んでいたと書いています。

真澄:天徳寺



八橋田・二つ森

真澄:二つ森

天徳寺から、外旭川八橋田に出ます。 
外旭川小学校のあるあたり、荒屋敷村に二つのこんもりした森があり、描写しています。 
今も大切に保存されている森です。 
二つ森縁起



濁川

真澄:濁川

=真澄記= 
村あり、濁川と言う。 
西に毘沙門天王の堂あり。それを廣田大明神とぞ言いける。 

今も大切に保存されています。

廣田大明神



添川・乗福寺

真澄:乗福寺

=真澄記= 
添川村に来る。湯澤山乗福寺という禅寺が山際に見えた。 
正観音菩薩、如意輪観音の二菩薩を祀る。 
それゆえ、良しの多かるとなん。 

左は真澄が描いた乗福寺の鎮守です。

乗福寺



添川神社

真澄:添川神明社

=真澄記= 
山本郡の添川にも杉生の神として副川神社があるが、ここにも添川村と添川神社があって杉生の神だ。 
この神の神斎は夏祭りとて六月の一日、霜月(十一月)の一日の一年に二回の神事をする。 

とあります。添川神社は真澄の時代と変わっていないように見えました。

添川神明社



龍淵山松應禅寺(八田)

真澄:龍淵山松應禅寺

ここは前年(勝手の御弓)で通っています。 
=真澄記= 
無等良雄和尚の開山遷化後今年(文化八年)で450年の忌にあたるので、松原の補蛇寺からあまた僧を招いて法会を行う。 
補蛇寺から杉苗千五百株と十五貫の銭が添えられている。これはこの寺が後に行う「摺(すり)」の料であると語っていた。 
松應寺縁起>    <補陀寺縁起

正応寺



嵯峨家(目長崎)

真澄:嵯峨家に伝わる宝物

これも前年世話になった目長崎村の嵯峨理右衛門利珍の家で逗留します。ここで仲間と合流する予定ですが そうやら一番早く着いたようです。 
ここで、雨で濡れた服などを干してもらい人情を感じます。 
夜は村の盆踊りを楽しみ、次の日は仲間と合流を果たして、出発します。

目長崎の嵯峨家


<村の盆踊り>

=真澄記= 
雨がいささか晴れて、月の光が照ってきた。「盆踊りをしよう」ということになって 白歯、黒歯(未婚既婚の女)に赤いますらお(屈強な男)など男女の声が聞こえてくる。 
「そろたそろたよ、踊子がそろた。秋の出穂よりよくそろた」と歌う。 つづみ、かねを鳴らしつつ、月ふけるまでざわめいていた。


目長崎嵯峨家で仲間七八人と落ち合い、出発します。 
堀合(ほりあい)、平形(ひらがた)、寺中(じちゅう)、寺庭(てらにわ)と通り、正一位の宮・稲荷村、黒澤は前年勝手神社に参詣したところ、さらに皿見内、霜野、逆川(さかさがわ)を通って山谷村になります。 
さあ、ここから「おろちね」(太平山)へ登ることとなります。