房住山物語(琴丘・二ツ井町の房住山の昔語り)

文政6年頃(1823年)真澄70歳の紀行文です。

むかし,房住山の山下に住む老夫が山に登ってきて、終夜この山の昔物語を語ったと伝えられています。 
この山は,修験者の僧房が多かったので,「坊住山(ぼうじゅうざん)」とも呼ばれていたと言、大施主は高倉の長者でした。 
坂上田村麻呂に征伐された蝦夷首領の長面三兄弟の話から始まって、周辺地名の由来や、高僧の和歌、房住山開基(かいき)の禅定滝などの山岳信仰伝説を記録

 

真澄の昔物語

八面>   <大兄沢・小兄沢>   < 翁面(沖田面)> 

 三種川(林崎村)>   < 聳滝(そびえたき)


=真澄記= 
東国の蝦夷征伐の勅命があり、将軍坂上田村麻呂が下向し賜うた。 
蝦夷の首長を誅伐し、残党をくまなく探し出して男鹿の山まで追討した。 

しかし、その中に、そこかしこに隠れなかなか捕まらない蝦夷の強兵が11人、その中でも名に聞こえたる三兄弟がいた。 
兄の名を阿計徒(あけと)丸、次を阿計留(あける)丸、その次を阿計志(あけし)丸と言った。 
この阿計留、阿計志二人を長面兄弟と言った。それは、その面の広いこと一尺三寸、額髪際より顔まで二尺四五寸あったと言われる。 

幾多の蝦夷がみな討たれる中、阿計徒一人行方が知れなかった。阿計留、阿計志二人は、日高の山間を出て逃げようとした。 
阿計留は中津六郎某等によって河辺の山間の狭い所に挟まれ、河をせき止めて待っている所へ逃げ込むこととなった。 
将軍勢あまた追い来て、東西より包み込まれ、数日の戦いに疲れ、遮二無二渕へ跳び入ったが、礫を雨の如く打たれて水中で死んだ。 
身の丈一丈に余る男は、鐵の鎧二領を重ねて着ていたため、岩石のようで、二三十人で引いてもびくともしない。ともかくも、大将の前に引き出して、都の人々にも見せようと川下へ流そうとするが、思うにまかせない。川の南の小高い丘に埋めさせた。 
将軍はさすがに憐れみを感じ、引導を渡したと言う。 
(今、その場所を長面と言う。) 

房住山の高倉の長者が田村麻呂将軍の御下向と聞いて大いに喜び、勇みたって待っていたが、そこに田村勢に追い立てられた阿計志丸軍勢が来て東の山に逃げ延びようと躍り出てきた。 
高倉の兵が手に手に得物を持って追い回せば、かの房住山の堂の辺りに隠れ、一息ついていたところに、田村麻呂の軍勢と高倉勢が山も崩れる勢いで押し込んできた。 
山の衆は大いに驚き、「すは鬼が山へ入ってきたか」と大鐘・太鼓を打ち鳴らし、墨の衣に玉たすきをかけて、各々得物をもって、おたけびを上げて追い立てた。 
さすがの阿計志もたまらず、西をさして山を下りるが、山々の隅々谷間に加勢があり、沢口より逃げようとするも、軍勢の放つ矢は蓑毛のように身にそそぎ、流れる血が川を染めた。あまりに疲れ、川中に打ち倒れ、声も出せずにそのまま死んだ。 

田村麻呂大将軍は、阿計徒を見失ったことを残念に思い、寺内古四王神社に御立願のために御参詣になった。 
その時、当山の大衆は大いに喜んだが、東の山より山も崩れるような大音響が響き、人々大いに驚き、「いかなることか」と魂を飛ばした。 
鬼賊が言う。 
「汝ら、よく聞け。我は先の戦で死んだ阿計留丸、阿計志丸が兄の阿計徒丸なり。阿計志丸は身の丈一尺二寸、阿計留丸は一尺三寸、阿計徒丸は一尺三寸五分なり。我こそ日本一勝れた男と思え。 
官軍にも味方にも並でない者がいるが、それを人は大長(おおだけ)丸と言う。これも先の戦で死んだので、今は我に勝る者はいない。 
しかし、過日に戦に少しも眠っていなかったので、日高山の麓の洞窟に隠れ、昼夜寝入っていて、目覚めれば二人の弟も死んだ。大長丸も討たれ、仇を頼むこともできない。劣らぬ朋輩が八人いたが、これも食料も尽き、敵に首を獲られるよりはと日高山に登り、同枕に死んだ。その兄弟も仇を討ちたくも、食料が尽き、疲れで死んだ。 
汝ら如きもの、相手には不足だが、兄弟朋友まで死亡せしは汝らのせいである。最後の門出だ、思い知れ!」 
雷のような大きな音とともに走り出て、僧が多数いる寺のひさしに諸手をかけて二ゆり三ゆり動かせば、寺はたちまちのうちに潰れた。 

しかし、阿計徒丸はなんとその寺の角木に押しつぶされ、身動きできない。なんとか動かそうと踏ん張るが力及ばす。「ああ口惜しい!」と身悶えするところに、坊主が中から太刀を持ってきて首を討ち取ってしまった。 
「まさに神仏のご加護だ。」と皆涙を流していたとき、阿計徒丸の両目より光る物体が出てきて、一丈ほど飛び上がって、一つになって北の方へ飛んでいった。人々は「不思議なことだ。」と言い合った。 
夜も明けて、田村麻呂大将軍に報告すると、御悦喜限りなく、これは御神力の為す所と、古四王宝殿に礼拝して、房住山御陣所へ戻られた。

大将軍からの「急ぎ首を持参せよ。」との指示で、当山の大衆が阿計徒の首を持ってきた。大将軍は高根に登り、多くの軍勢を前後左右に立ち並べて、その中に鬼賊の首を据えて引導をされた。阿計徒丸は阿計留丸、阿計志丸に替わって頭上に角を立て、二目と見られぬ恐ろしいありさまであった。 
この御引導のあった所を<実検長根>と言う。 

御引導を終えて、実検長根から首を下げた時、大衆は一句同音に念仏を唱えた。この山坂を<菩薩坂>と言う。 

その首を東の尾崎蹈鞴(たたら)の台に埋めさせ、印として栃の木を植えた。その時、陣幕が血に染まったので、沢水を溜めて洗わせた。そこを<幕洗い沢>と言う。 
その後大衆にも御目見を許されたので、その陣所があった所を<今目見平>と言う。


そして、「盗賊は東から来る。」とて、要害に、沢口に木戸を構えさせた。そこを<木戸野沢>と言う。 

また、実検長根に近い一段高い所。当山の大衆は実検の首を持ってきたので、その身不浄として、山伏を沢山集め、仮屋を建てて、御幣七五三に切って神事を営んだ。そして祈願のため羽黒三所へ奉幣した。そこを<切所作平(きりはぎたい)>と言う。 

大将軍は、軍神である牛頭天王はじめ諸神に奉幣し、都へ帰ったと言う。