外が浜風<2>(五所川原を出て青森まで)

天明5年(1785年)真澄32歳の紀行文です。 


5月、秋田県湯沢を出発した真澄は、8月、岩館(八森町)から青森県西海岸を通り、深浦、鯵ヶ沢を通って五所川原まで旅します。「外が浜風1」 


ここでは、そのあと五所川原から弘前をへて青森へ向かい、到着するまでの紀行を紹介します。 

真澄は、ここから北海道へ向おうとしますが、松前からの悲惨な難民に会い断念、南下して矢立峠から大館に入ります。これは「外が浜風3」で紹介します。


五所川原を出発

JR鶴田駅前の風景

=真澄記= 
亀田村、鶴田村というところを過ぎる。 
岩木山の頂上にかけて、雄鹿が角を振り立てるように雲がかかっている。このあたりを阿曾辺の森というそうだ。ここでも田村(坂上田村麻呂)の大人の逸話が語られている。 
菖蒲川村、大相村、小幡村を通っていくと、薄の中に虫が鳴くのを聞いた。

亀田新田付近



板柳の村

板柳の海童神社付近

=真澄記= 
入り口に「寶量宮」という額を掲げる神社がある。 
「この社は何の神を祀ったものであるか、、」と氏子に問えば、「本当は虚空蔵菩薩を秘めて奉っている。」とこっそり教えてくれた。 
朶村、松ノ木村などを通り、暮れて野原の道をたどると、月が明るく故郷の方角から照らす。思い出される。

海童神社内の虚空蔵菩薩



藤崎・弘前

藤崎唐糸御前像

=真澄記= 
里に近づいた。藤崎というところだ。真蓮寺という親鸞聖人の寺へ一夜を請い、許しを得た。 
次の日、百田村を経て津軽野に出た。大久保、撫牛(なでうし)、堅田、和徳そして弘前に来た。 
土淵川と言って、いろいろと玉石を拾っている。世に言う「津軽石」と呼ぶものらしい。男女は「やすの木」という木の皮を編んだ履物をはき、女は「しそ」と言って、風呂敷のような物を被っている。

藤崎の板碑



岩木山詣

岩木山詣(資料)

=真澄記= 
笛、つつみを鳴らしてどよめき、「さんげさんげ」と声をそろえ、唱えて過ぎる一行がある。今年最後の岩木山詣の一行だ。

岩木山神社


<丹後人を忌む> 
その昔、岩城の司半官正氏に二人の子がいた。「安寿姫」「津志王丸」と言った。この魂をこの峰に祀っている。さる物語があるため、丹後の国の人々はこの岩木山には登ることはかなわないと言う。また、この峰の見える海に、その国の船がおれば、海が荒れて泊まることも難しいと言う。 

<岩木山の名所> 
この峰の付近に赤倉という洞があって、「万字」「錫杖」というふたつの鬼が住んでいたと言う。 
また、「煙の滝」と言って、水煙が満ち、落ちる水は雲のような飛泉があるそうだ。 
目屋の沢の奥に「暗門の滝」と言って、20余丈の落ちる、世にも見ぬ滝がある、、、、と見た人々が言う。

   暗門の滝


十腰内村の由来
=真澄記= 
境堰村の路の岩に腰をかけていると、岩木山に妙な雲がかかっている。 
連れの者が言うには、あの雲の下あたりに十腰内村というところがあるそうだ。 

昔、鬼が打った刀を「鬼神大輔」と言って9腰あって、10腰ないために、これをそのまま村の名前にしたという。 
本来は10腰打ったのだが、1振りは十腰内村の李川をいう川に沈んだという。 
その剣は今も夏の頃に、淵を通った人に飛び出て突き、身の毛もよだつ振る舞いとか。いつも夏になれば人々は恐れ、この川近くの人が立て札を立てるという。 

また、十面沢というところがあり、岩を人の顔のように十造ったところもあると言う。

猿賀神社

田舎館の猿賀神社

=真澄記= 
八幡崎を通って猿賀村にいたる。鳥居の額は「深砂大明神」と書いてある。 
この神社のほとりに、鬼の頭を埋めてあるそうだ。また、義経の石などもあると、近くの人が教えてくれた。

猿賀神社内の胸肩神社



黒石

黒石のこみせ通り

=真澄記= 
追子野木村を通って黒石に着いた。 
糠部のあたりでは、「しそ」「やましそ」というものをかぶっている男女が多く見かけた。また色々に綾なした模様を縫った短い衣を着ている。「刺し子布」というそうだ。

刺し子布



青森へ
=真澄記= 
浪岡村では、盗賊が出るというので、明るいうちから宿をとった。夜半、村の人々が棒や鉞・鎌をもって盗賊狩りに出かけたそうだ。隠れていたところを、足を捕え、棒で打ち据え抑えたところ、大勢の人が来て縄をかけたという。 
あくる日「津軽坂」(大釈迦峠)を超えた。真萩がたくさん咲いている。馬曳が言うには「沢の奥に炭焼き藤太の小屋の跡がある。藤太には橘次、橘内、橘六と三つ子があった。」そうだ。通った吉内村もこのいわれか・。 
油川、新城、岡町、大浜を経て、青森の湊に着いた。