久保田の落穂(旭川の命名)

文化12年(1815年)真澄63歳の紀行文です。 


「雪の出羽路雄勝郡」を編纂した真澄は、3月にいったん久保田(秋田)へ帰ります。 

久保田(秋田市)の山の手の桜を見る、愛でて、「花のしののめ」を書いた真澄に、七月、藩主義和の死亡が知らされます。 

義和死去の悲報はは真澄にとって、地誌編纂のよき理解者であったことから、真澄の落胆は相当なものだったと想像されます。 

真澄は藩主義和から、当時に久保田を流れる川について命名を依頼され、旭川を名づけたいきさつについて書いています。


旭川
=真澄記= 
久保田を流れる川を「仁別川」という人がいる。また「泉川」と言う人もあって定まった名がない。 
君(義和)が「この川に名をつけよ。」と言われたので、那珂通摶は、かしこまって、「仁川」と申し上げると、「良い名ではあるが、漢詩には向くが和歌ではどうか」と言われたそうだ。 

この川の源(みなもと)は太平山の東側で、そこを朝日嶽とも言うが、その沢を旭又と呼び、また旭又川とも言う。 
この水は滝と落泉をへて、この久保田をめぐって新屋の海の近くで雄物川に入る。 

この川の名こそ「旭川」が良いと思うと、那珂通摶を通じて申し上げると、君は大いに喜び、「旭川と言う名は歌にも良く、川を祝う心も深く、まったく新しくつけたものでもなく、旭嶽より落ちる流れをもって名づけたものである。」と言って喜んでくれたという。 

私は、”旭川 夕日の色もでき入れて 紅ふかき梅のした水” 
と詠んで、さしあげた。