ひなの遊び(五城目付近、能舞を見る)

文化6年(1809年)真澄56歳の紀行文です。 

真澄は、五城目付近の盆踊りを見物したり、付近の古寺などを見ます。 
<ひな>と言うのは「田舎」,<遊び>は「番楽」のことで、各地に今も残る神楽や能舞と同じです。 

真澄は、五城目の番楽面をスケッチしていますが、五城目には山内、中村、西野、恋地の四つの番楽があり、毎年五月十五日に一堂に会して、番楽の競演が行われているそうです。


山内/広ケ野

真澄:広ケ野の風景

=真澄記= 
山内の和田という所に大宮権現という神を祀っている。古い神で「大宮賣(おおみやめ)」を祀っている。 

山内の小川橋を渡れば昼鹿という野原に立つ(広ケ野)。 
馬櫪の祠がある。大宮権現ともに群松の中に沈んでいる。遠い世が偲ばれる。

広ケ野から森山を望む



今戸/實相院

=真澄記= 
今戸という湖傍の村に来た。熊野山密厳寺實相院を言う所で、行基菩薩が作ったという阿弥陀仏を堂に置いて、秘事を行っている。 
この境内に八つの石の卒塔姿(板碑)がある。みな康永(1342~45)、暦応(1338~42)の年号がある。大槻があるので古寺と知れる。 
(板碑は自然石に菩薩を刻んだ像で、年号や願文が刻まれています。大半が南北朝時代に建立されたと言われています。AKO)

真澄:實相院

真澄:板碑

今戸の實相院


石の卒塔姿(板碑)



小今戸/薬師堂

真澄:小今戸薬師堂

真澄:小今戸の板碑

=真澄記= 
今戸から少し離れた小今戸という村に古い槻の杜があって、薬師堂がある。 

ここにも十ばかりの石の卒塔姿(板碑)がある。同じ康永、暦応の年号がある。 
五城目に沢山の石の卒塔姿(板碑)を見た。 
いずれも五百年も前のものである。「南朝のほころい」であろう。不思議なことだ。

小今戸の薬師堂



山内/円通寺

=真澄記= 
山内の栃厳山円通寺は平城天王(806~809)の御代に建てられた。 
天台であったが、半ば廃れていたのを、松原の補陀寺十一世の光室源瑞和尚の手で再建された。
大洞山の松という大松があり、寺の軒近く苔むして立っている。 
この寺は本当に古い寺で、板戸や柱は昔のままである。 
この寺の宝として、桜形の鎧、しつくらぼねの三具、守重が打った鍔・長刀があった。具足もあったらしいが失せたと言う。木主のひとひらに「三浦玄番広森」とある。 

円通寺


真澄:円通寺

真澄:宝物

真澄:宝物

真澄:宝物

真澄:宝物


<円通寺>

=円通寺解説= 

大同二年(807年)創立という伝説がある、県内でも古い寺院の一つである。 初めは天台宗であったが、後に曹洞宗の禅宗寺院となった。 

背後の山内城の城主三浦氏との関係からであろう、安東氏内戦による三浦氏の没落、松前への退去によって、法憧寺などの禅寺の末寺を建てていることでも、密接な間柄が知れる。 

三浦一族の位牌は、菅江真澄が「ひなの遊び」に記録したとおりで、他に町指定文化財の剣・鎧など、三浦氏の遺品などが宝物殿に展示してある。 本堂は向拝がない古い寺院建築で、重厚な風格がある。

 

<金剛寺伝説>

同じ下山内の村の宮地山三光院金剛寺に次の伝説がある。 


この寺の上祖は宮奴の家だった。その妻は見目麗しく美しかったことから、世の評判になっていた。 砂澤の館の主人が、その妻に焦がれ、宮奴にあらぬ罪を負わせて命を奪ってしまった。 泣き悲しむ妻を自分の女をとして迎え、年月がたった。 

ある夜、この女、枕元の刀をやおら抜き取り、この男の男根を「今こそあのときの報いだ。思い知れ!」と刺し貫いて逃げた。 

この女、男鹿に逃げて金蔵坊栄正という賢才と再婚して、再び家を興した。 砂澤の館はやがて滅びたと言う。 

また、金蔵坊には、この後神にしるしがあったと言う。 

二世の三光院正神はひたすら滝に打たれる行を行い、荒滝に打たれても寒さにも凍えなかったと言う。 


盆踊りの歌
五城目の盆踊りを見て、その歌を記録しています。 
=真澄記= 
「歌の地を聞け節を聞け、ふしが揃わねでごめんなれ」 
「恋し北野のわせつばな、男通いは二度孕む」(北野は八郎潟に近い村) 
「八重桜、一重桜を笑えども、八重も一重も一盛り」 
「空に雲ないはればれと、わしが心はいつ晴れる」 
「酒をあがらば中見てあがれ、酒の中にも文がある」(盃の中に歌を書いて飲んだ。) 
「祖母御(ばばご)死ぬなら六月死にやれ、蚊が導く蜂が銅鑼(ドラ)敲く(たたく)、そこで蛍が火を燈す」

番楽舞

=真澄記= 
陸奥では「神楽」と言い、糠部では「能舞」と言う。この秋田では「舞曲(あそび)」とも言う。 
昔の文にも「楽は盤渉にて伊勢の海と言うことを、あそぶ等と言う」とある。もともと楽(あそび)という詞だろう。



小池/御前柳大明神

真澄:御前柳大明神

=真澄記= 
その昔、浦の城主三浦兵庫が秋田城介實季と戦い討ち死にした時、身ごもった妻が落ち延びて、ここで出産して死んだ。 
その後、佐竹義路公の妻が安産の祈りをしたところ、非常に安らかにお生まれになったことから、宮代を作って祀ったと言う。 
< 御前柳大明神縁起

小池の御前柳大明神



五城目探訪

野田神社

野田神社の大けやき

砂澤城跡