はしわの若葉<3>(水沢、前沢付近)

天明6年(1786年)真澄33歳の紀行文です。 


旧暦4月~6月にかけて、岩手県一関市大東町(旧磐井郡)付近を散策します。 

大原の桜を愛で、北上川を渡り、中尊寺や配志和神社を詣でた真澄は、水沢、前沢付近を散策します。 

現地に伝わる昔話も見所です。


水沢の塩釜社

塩釜神社

=真澄記= 
14日、水沢の塩釜の桜を見ようと発った。宮処はずいぶん広く、塩釜の御神を遷し、四つの釜そ据えて祀っている。 
木の花は今を盛りと咲き誇り、人々は歌を詠んでいるが、雨がひどく降ってきて花の下で宿るどころではなくなったので、人々は皆帰っていった。私は大林寺に行って、雲華上人を訪ね、なにくれと話をした。 
<虫除けの呪い> 
この寺の裏手の小田のあと口という所に、焼米を撒いている男がいる。何の肥料かと問えば、「これは稲田の虫除けの呪い(まじない)だと言う。



結婚の風習

=真澄記= 

18日、水沢に近い山里に、片田舎には珍しい婚姻があるというので、でかけた。 


<糸剪(いとがり) > 

嫁家の隣にお邪魔して見ていると、七所鉄漿(ななとこがね)<鉄漿(おはぐろ)の儀式>水を張って、その鉄漿母親も来て外に莚を敷き、若い女が集まってきて、この未通女の顔に糸剪(いとがり)というものをする。 

それは麻のより糸を左右の指でちどりにかけて顔の上を引く。顔の産毛(うぶげ)が剃ったようにみな落ちる。剃刀なんかは必要ないほどだ。 


<縁の綱 > 

更に髪を結い、紅粉、白粉で装えば、翁が覗きに来て、「はや彩色(にごみ)しか。」と言う。 

このあたりでは、物を彩る事を「にごむ」と言い、翁が戯れで言ったようだ。 

この嫁の頭に能狂言のカツラのように、白布、紅布、麻布、絹布などを額にあてて後ろに結んで下げる。ことさらに長い。 


<守木(もりき)> 

遠きは馬、近きは徒歩で婿の家の近くに行くと、婿が新婦を負う。それは、肩荷布(すくい)または守布(もりで)と言って、八尺の布で負い、また守木(もりき)といって二尺余りの丸太を二本紙に包んで、水引で陰・陽を結び、この守木に新婦を腰掛さでて負う。 


<婿むしろ嫁むしろ> 

婿の家の門に莚(むしろ)を重ねて敷いている。婿の莚を上に、嫁の莚を下に敷くべきを、若者等が「嫁の莚を上にせよ。」と争っている。婿の莚を下にすることは、婿方の恥なので、小刀を持って争っていると、老人が出てきて「これを貰い。」と言うことをして争いが収まる。 


<婿の袴を着る> 

拍手の中に守木の受け渡しがあり、嫁を重ね莚におろして水を飲ませる。 

婿の袴を持って出て、嫁が着る。をれは前襞(ひだ)を後ろへ、後腰(うしろこし)を前へ当てて、婿の家の横座を踏めば袴は取る。 


その夜は蝋燭(ろうそく)は使わず、皆あぶら火、たいまつを使う。世に八寸台というのを九寸と言い、平器(ひら)と言うのを角(かく)と言う。古めかしい風習を見た。 

その夜遅く水沢に戻った。


時鳥(ホトトギス)物語
=真澄記= 
29日、木々が深く茂っている中に、時鳥(ホトトギス)が鳴いている。 
童が集まってきて「町さへ往(い)ったけとか。」とこの鳥の真似をする。町と言うのはこの町に立つ市のことを言うようだ。 
また、時鳥を「五月鳥(さつきどり)」とも「五月鳥子(ごがつとりこ)とも「田植え鳥」とも言う。また「小鍋焼き(こなべやき)」と言う郷もある。 
東海道では「本尊懸けたか。」と鳴くと言い、ホトトギスの字も様々多い。また、時鳥にまつわる話には、はかない童の物語が多い。 
<ホトトギス物語>

前沢 霊桃寺

前沢の霊桃寺



=真澄記=

前沢の霊桃寺で端午の節句を迎えた。

男子のある家の軒に旗を立てるのはどこも同じだが、ここでは女の子の家でも、果ては子供のいない家でも旗を立てる。けじめがないのは出羽(秋田)でも同じようだった。

どこの家にも軒に旗



江刺 百歳の祝い

=真澄記=

江刺の黒助(くろだすけ)という村で、百歳の老姥の長寿祝いがあるというので、友とでかけた。

某家に着くと、老姥は耳は遠いようだが目は黒く、紙は黒髪混じりのおもざしで、歯は一つも欠けていない。70・80歳に見え、とても三桁の歳には見えない。世にはこんな人もいるものだ。

老姥に酒を勧め、その末杯とて、皆で杯を取り巡らした。この老姥、13歳でここに嫁にきて、今80歳になる子と50歳の孫がいるという。杯をあげて酔い、孫たちが傘を開いて踊る様は、かの中国の老莱子・老萊子が舞い戯れて倒れるのに似ていると、人々が声をあげて囃している。


黒石 龍門の滝

龍門の滝



=真澄記=

龍門の滝という面白い滝があるというので見に行った。木々に深く落ちていた。

近くに蕨の岡というツツジのきれいなところがあり見入った。

黒石の街並み(水沢区)



六日入りの田植え風景

=真澄記=

北加美川(北上川)を見れば白帆をあげて舟を出し、田の堰を開いている。田では長い竹綱を着けた馬が廻り歩いている。竹綱を取る女を「させご」というそうだ。

隣の畑では童が「けこ・ちちご・たかご・ふなご・にわご」などと歌いながら桑の葉をとっている。

4・5日して、早苗を見ようとまた田へでかけたが、菅笠が白々と田に見え渡った。森蔭に卯の木の花が咲いていたが、それも時として「早乙女」と言うそうだ。

<にわご>

蚕は上簇するまでに四回皮をぬぐ。それを眠るともいう。はきたてたばかりのものをけご、一民が終ると二齢といい、二齢の蚕をちちご、二眠を終って三齢をたかご、三眠をふねのやすみといい、四齢をふなご、四眠をにわのやすみ、五齢をにわご、にわごの終りに繭をまく。


小歌舞

=真澄記=

胆沢の栗駒山の麓、金入道という村では老姥のことを「ごんご」と言う。3・40歳と若い女は「ごんごびめご」と呼び、嫁は「姫子(ひめご)」という。

家で酒盛りがあるときは小歌舞というのがあって、盃と左に持ち右に扇を開いて「酒は諸白(もろはく)お酌はお玉、さしたき方はあまたあり、さすべき方はただ一人」と歌い、酌をする。酌をされた人は頭かきかき盃をとって一杯飲み、二杯飲みと重ねていき、やがて宴もたけなわになるという。

<柏葉さして>

夏の始めの楢(なら)の葉・柏の葉を敷いた莚(むしろ)の下に敷き押して乾燥させ、これを懐紙にして人に肴を載せて勧めるという。


石手堰(いしてい)神社

神社境内



=真澄記=

北上川を岸伝いに黒石方面に行けば、雌島雄島などと岩群があり分かりにくい道が続く。梢を払い蔦をたぐってようやく社に着いた。

ここは胆沢郡の7社の一つであり昔は大きな社殿だったことが伺えるが、今はささやかな祠である。皆は知らないのか。


昔は北上川を加美川と称し、古くは古神川とも言った。石手堰の神が鎮座する由をもって加美川の名になったものかと考えた。

石手堰神社



大原 長泉寺

=真澄記=

大原の長泉寺に参った。葉山の社とも言う。その由を問えば、その昔京都の大原・小腹・葉山などの御神を遷したとのことで、「奥の葉山」と言ったそうだ。

その後那智の補陀落山の菩薩も遷したとのことで、今は寺巡りになぞらえて26番の札所なっている。

<小蛇の奇事>

長泉寺の山に鋤(すき)・鍬(くわ)を入れれば、小さな蛇がどんどん湧いて尽きることがないという。いかなることか。

小丁物語

長泉寺

長泉寺の境内

山のお堂



室根山登山

=真澄記=

室根山に登ろうと、人々うち群れて吹上というところにきた。風が立って「ああ涼しい。」と苔もむしろに円陣を組んで休んだ。

さらに登ると遠くに「君が鼻山」という山がある。この山、石と積んだような山で人々と見入った。

峰をいくつか越えると、神を祀る所がある。新山・本山という二つの社が並んで、おごそかな所だ。室根権現を祀り、中には11面観音を安置している。

頂上からは、遠く気仙沼の海や金花山などが雲の合い間から見える。人々は竹筒を開いて水を飲んだ。

山を下りて、麓の山里の家で休んだ。主人が蕎麦・餅などを出してくれ、嫁御は大きな桶を持ってきた。中に濁酒が入っていて、人々は居並んで大いに盃を重ねた。



続石神社参詣

続石大明神

大原の続石の神に詣でた。ここは安倍比羅夫の寄付品もあって、昔は栄えていたそうだ。

また、寺を続石山大原寺といい、開祖は円仁大師で、藤原清衡が平泉に住んだ時「我が館の鬼門を守護し給え。」と請願したところだという。

伝わる歌がある。「よき事を万代かけて続き石の神の恵も大原の里」

続石