にえのしがらみ(大館周辺と松峰山)

享和3年(1803年)真澄50歳の紀行文です。 

扇田(比内町)から仁井田(大館市)に来て藤原泰衡の昔を偲び、松峰山傳寿院(大館市)に行きます。藤原泰衡・埋没家屋・釈迦内松峰山伝寿山などを記しています。 

仁井田はかつて河田次郎が柵を構えており、平泉藤原氏の泰衡終焉を地とされており、この柵の名をとり真澄は「贄(にえ)の柵(しがらみ)」と名づけました。 
(贄とは「いけにえ」を意味し、哀れ泰衡が河田に殺された無念を表したものと考えられます。


扇田(比内町)

真澄:扇田から達子森

=真澄記= 
法王山十却院正覚寺に源九郎義経から賜ったという正観音を据え奉った寺がある。 
扇の形を稲田から三百苅の稲がとれたと言い、村の名にもなっている。 
中路を行けば仁井田の藤原泰衡館跡(西木戸杜)も見えてきた。 

真澄:扇田から西木戸杜


<藤原泰衡>=真澄記=。 

600年の昔、宗任の軍敗れて、陸奥の領使藤原朝臣泰衡が落ち延びて、蝦夷の国々を周り、出羽に国にたどり着いた。 

頼みの郎徒であった「贄(にえ)の柵(しがらみ)」に住む河田次郎を頼り立ち寄った。 

しかし、この河田次郎は心変わりし、泰衡の首を討ち取った。この首を一刻も早く頼朝に見せようと、急ぎ馬を走らせたということである。 

文治四年のことであったそうだ。


仁井田
=真澄記= 
泰衡の墳といって、出向(でむかい)の小さな森に、沢山の花に混じって二本の小松があり、鳥居がいくつも立っていた。これは花木好きの神だから、花の咲く木を植えて手向けているのだそうだ。 
土地の人は、「ここで殺されたのは、泰衡の兄の西木戸国衡だ。」と思うのであろうか、西木戸森と呼んで、田の神として祀っている。 

都の伊藤善紹が書いた碑文はあるが、なぜか刻印されず真白な石碑が建っていた。泰衡の討たれた日は9月2日だが、ここでは9月3日にお祭りをするそうだ。 

真澄:西木戸杜

仁井田は「贄(にえ)田」の故であろうか、「贄(にえ)の柵」とはこのあたりを指すようだ。贄の柵跡は八幡神社の古館と言われている。遠い昔は、牲(いけにえ)をつなぎ、贄殿があったのだろう。



寺崎/五輪台/前田

真澄:巌松山温泉寺

=真澄記= 
巌松山温泉寺を田づらに見て、八角(やすみ)坂を通って寺崎村に出て、五輪堆(台)に来た。 
ここは次郎泰衡の妻が後を慕ってこの地まで来たとき、夫が討たれたことを知り、のどに剣を立てて自刃した所だといわれる。 
村人は祠を建てて、砕けた五輪石を納めて奥津城(おきつき)と言った。3月3日と9月3日が祭りだそうだ。 

真澄:五輪台


前田という村に来た。ここにも桂清水といって、桂の大木のふもとから寒泉が湧き出ている。


杉沢/大子内/大被
=真澄記= 
杉沢村のほとり、小坂の路の傍らに小祠がある。長い石をいくつも並べて瘡神(かさかみ)と言って、草八幡のように身の瘡を癒し給う神として詣でている。 
大小内村を通って大被(おおひらき)村になり、宿をとった。蚤・蚊が多く眠れなかった。

小袴/出川

=真澄記= 
小袴村に来た。このあたりの歌に、 
”ふんどしを小袴と言うなれば、異なる館の名なりと、一人微笑んで行末を問えば、唄うたう草刈る男の小袴破れて、ふぐり出川と言う村の、近うなりにあり” 
と、うち戯れて言うを聞きつつ、通った。 
右手に地蔵山、その名を庚申山を言うそうだ。青見の沢、桔梗が台とか、秋には楽しそうな所もある。 
引懸川(引欠川)を渡って、櫃崎村へ向かう路の途中、出川村に着いた。

真澄:小袴村から庚申山



仁井田野(蓑掛松)
=真澄記= 
仁井田野と言って広い野原の中を行けば、蓑掛松と言うのがあったらしい。 
この松の姿は、枝葉が節垂れて、蓑打ちかけに似ていることから、こう言ったものらしい。 
最近、野火で枯れてしまった。もったいないことだと、住人が小高い丘に山松を植えて、その跡のしるしと、今もその名で呼んでいる。 
また、その蓑は、泰衡が雨の合間に掛けたものだとも言う。 
道を横切って篠生(しのはえ・四羽出)へ出て、米代川を渡って、大館に近い根木戸という村に着いた。

独鈷町
=真澄記= 
浅利氏の頃は、二百余りの侍をここに住まわせていたという。今も足軽達をここに住まわせている。 
いにしえの昔を捨てず、いつくしむことが殿の気性をあらわしている、と思いながら長木川を渡った。 
大館城の逸話

釈迦内

=真澄記= 
獅子が森の山は、昔太笠山のような妙なる音が聞こえたとかで、微妙山の名もある。
さらに進むとやがて杜がある。社があって「初七日山」と金色の文字の額がある。 
「道崇入道が弘長の昔、妾の韓絲の御霊のために、釈迦牟尼佛の像を三体作らせて納めた。」とか。 
このことから釈迦内と言うそうだ。 

乱川という小さな川にかかる橋を乱橋と言うそうだ。同じ名を相模の国でも聞いた。戦が乱れていたのだろう。 
この上は、商人留(あきびとどめ)と言って、その昔、鎌倉へ往復した道路があって、、そこに住む者が商人の貨(たから)を奪い取っていたが、これを退治した物語がある。

  真澄:釈迦内沢と釈迦堂


松峰神社(松峰山伝寿院)

=真澄記= 
大森を通れば松峰の館がある。山に踏み入れば伊勢の大峰を祭る社がある。修験者の寺だ。松峰山伝寿院と言う。 
この峰の不動尊に詣でる人も多く、その昔はこの近くの優婆塞(うばそこら)たちで、奈良の大嶺・葛城にまだ登っていまい人々は、「さんげさんげ」を唱えて、数珠・鈴繁・頭巾・ましこ・ひきしき・あやひ笠を身に装い。独鈷杖に法螺・錫杖を鳴らしてこの峰に入ったと言う。 
宇多帝御製> <胎内潜> <駅沢の古鈴> <松峰山巡り

  真澄:松峰山伝寿院


岩本山信正寺
=真澄記= 
ここに、牛が三頭ばかり寝れるくらい大きな古い銀杏の木がある。 
この寺は出羽庄司某が、河田次郎信正が討った藤原泰衡の御霊を奉ろうと、建てた由を言うそうだ。 
はたまた、河田次郎信正のために、浅利家より建てられたとも言い伝わっている。 

ここの西北の萱刈平(かやかりたい)のほとりに勝山がある。今は寒山(さぶやま)と言うそうだ。 
そこは、その年の師走、浅利軍敗れて、大将の浅利左衛門尉定頼が討死し、この寺にその木主(しるし)があった。 
残った郎党、「辨川勘右衛門」「成田興右衛門」「明田勘解由」「白瀧但馬」「藤陸丹後」等も、明くる年正月十六日に討ち負ければ、ますます秋田の家は「勝山」の名も高くあげたとか。

根井権現堂
=真澄記= 
杉むらのほとりの田の中に、根井権現堂という神の森がある。この鳥居に入った。 
ここは、蝦夷征伐に来た坂上田村麻呂がこの根井の堂にこもって、 
「思いある心のうちの瀧なれば おつると見えて音のきこゆる」 と堂の柱に書いたといわれる。 
山陰のささやかな堂のほとりに泉がある。夜更け、人が寝静まった頃に、一人心鎮めて聞けば、耳のうちに落瀧の水の音が聞こえる。明けて訪ねれば、瀧はない。 
この瀧を「しらぬ滝」といって「しら滝」と言う。

十三森

=真澄記= 
なお高く上れば、小さな堂がある。ここは安倍頼良の嫡男、厨河の次郎貞任の兄、井殿盲目安東太郎良宗が若くして身まかった塚だ。 
近くに十三森というのがあり、井殿冠者良宗のために、十三仏を置いたという。 
また堂屋敷というのがある。七ツ館、蝦夷館、また、ここにも桂清水の観音というのもあると案内が言う。 
盲目となった兄のために、これだけ祈った兄思いの貞任の人柄が偲ばれる。

    真澄:十三森


松原(花岡)
=真澄記= 
花岡を出て、しばらく行くと、松原という村がある。ここは法相(法相宗)なものか、真言宗なものか、昔大寺があったと言う。その寺は今は遷されたそうだ。まさに、今の 補陀寺(秋田市太平)である。 
この寺の跡は「寺の沢」という村になっている。この先を更に行けば、長走を通って、津軽の国境だ。 

戻って花岡を見た。雌神、雄神、入道くら、萩長森などを過ぎて、神山の館も過ぎて、右手に大きな杜が田の中にあって、異嬬盛(おなめさかり)というのがある。大杜の柵の君の妾の館跡だそうだ。 

かくて、釈迦内、大館を通って、扇田の里へ帰りついた。