けふのせば布<3>(一戸から盛岡、花巻まで)

天明五年(1785年)真澄32歳の紀行文です。 

錦木塚(鹿角市)を見て浪打峠(二戸市)から南に向い、盛岡、花巻をへて片岡(江刺市)に至る紀行文です。 
けふのせば布<1><2>では鹿角から湯瀬、浄法寺、浪打峠を経て一戸までの紀行を紹介しした。 
ここでは、一戸を出て沼宮内、盛岡、花巻を経て和賀、北上(黒沢尻)までを紹介します。


御堂の観音

御堂の観音堂

=真澄記= 
御堂という村に来た。ここに納められている観音は、うまやの皇子が置き給うとも、田村麿が建て給うとも言われている。 
「北上山」と額が飾られている。御前にいささかの泉があり、これが北上川の源流だそうだ。 
人々は、この水に「こより打ち」と言って、紙を裂き捻って水面に投げる。願いがかなう時は沈み、かなわぬ時は浮いたと言う。

北上川源流の泉



巻堀の金勢大明神

巻堀神社

=真澄記= 
寺林、河口を経て巻堀と言う村に来た。金勢大明神を祀っている。名にたがわず石の雄元の形をたくさん祠に納めている。 
最近盗難にあったが取り戻し、しっかりと祀っていると聞き行って見ると、一間の高い机の上に銅の形を二つ、鎖をつけて奉じてあった。 
故を聞くと、昔粟生(あわう)の草引き女の乳に怪しい形の障り(さわり)ができた。取って捨てたがまた生えてくる。これも取ってど道祖神に納め祀ったら収まったと言う。

祀られる金勢さん



渋民村

=真澄記= 
長根という所に千本松といって、一本の根から幾本もの枝が生えている枯れたの枝に、ぞうり、わらじ等の緒のない履物をかけてあって、瘧(おこり 熱病)がなおるようにと願をかけている。癒えると、このように誰もがかけるのだという。 
また、女を見れば「鍵銭」と言って、味噌ダルの臼をついている。緒に通した沢山の鍵を腰に下げて、杵を振るたび鍵が鳴る。 
また声をそろえて「はちのへの、とのご達は、にちゃうさいたよくさいた、おらもなたと鎌、にちゃうさいた、よくさいたな」「十五七が、沢をのぼりに笛をふく、嶺の小松がみななびく」と歌っていた。

      姫神山

=巌鷲山= 
左に姫が岳という山がある。右には巌鷲山(かんじゅさん)(岩手山のこと)とよぶたいそう高い峰がある。 
「とへば名をいはでの丘ともしるべきを奥の不尽とはこれをいはまし」と円位上人(西行)も詠まれたと、里の人が言い伝えていた。 
巌鷲は岩手(がんしゅ)を書き誤ったのではないかと思ったが、鷲の形をした岩があるとか、まちまちに言っているようである。 

そのむかし、岩木山に安寿姫をまつり、この岳には津志王丸を祀っていると言う。また岩木山には、ずし王の霊をまつり、この岩手山に安寿姫の霊を崇めまつるので、安寿山というべきところを誤っているのだなどと、後の世の人々がさまざまに言うので迷ってしまった。真実はどうなのであろうか、知っている人に尋ねてみたい。

岩手山



盛岡にて

真澄:北上川の舟橋

=真澄記= 
盛岡に出た。北上川の辺に宿を借りた。翌朝、 
20艘も小舟を早瀬に浮かべ、中洲に柱を立てて金綱を引っ張り、継ぎ板をして馬も人も易く渡っている。
これは、古くは「佐野の舟走り」、あるいは越の国にあるとは聞いていたが、まだ見たこともなかったので珍しく、たちどまりたちどまりしながら渡った。 
このあたりの生業として、「あまどころ」といって黄精を蒸して、あるいは膏のようにして売っている。たいそう良い薬である。

盛岡市内の北上川



日詰

=真澄記= 
十日市町を過ぎた。ここから郡山という。大槻の観音と人々が崇めているのは、聖武天皇が安置したものと伝えているそうだ。 
日詰という所がある。五郎沼の東北に藤原清衡の四男樋爪太郎俊衡入道の館のあった跡があるので、ここの名にもいうのであろう。

路傍の石碑に志賀理和気神社と書き、裏に赤石明神と彫ってある。 
しかりわけの神を祀る式内社は紫波郡にひとつで、その神社がこの御神なので参拝した。 
また祠を北上の川岸に近く、東に背をむけて立ててあるのは、「この水底に毎夜、光る石があったのでそれをとって神に祀ったもの。」と、庵からでてきた法師たちが語ってくれた。


桜町(紫波町)という村がある。西の方、吾妻峰の麓に志和の稲荷という神社があった。 
たくな(滝名)川という細い流れをわたるころ、夕方になった。暮れて石鳥谷(稗貫郡石鳥谷町)という里に宿をとった。

観音がある高水寺

志賀理和気神社

赤石


志和稲荷神社

滝名川の流れ



石鳥谷・花巻
=真澄記= 
大瀬川(北上川支流)という川にかかっている土橋を渡る。 
八幡(石鳥谷町)を過ぎて宮野目(花巻市)をくると、花巻という宿駅があった。むかし、牧があったのであろうと聞くと、「むかし川岸に花がたくさんあって、散った花が流れに浮くころ、水がうずまいてたゆとうところから花巻の名ができたのだ。」という。 
ここに住む伊藤修という医者が、きょうは泊まっていけとしきりにいうので、まだ日も高いうちに宿をもとめた。

早池峰神社

里のはずれまで友を送りにいっての帰途、あおぐと早池峰(北上山脈の主峰)という高峰に瀬織津姫が祀られていると聞いて、礼拝した。 
その近辺に十握の宮というのがあり、そこは日本武尊の軍勢の陣屋の跡といい伝えられている。この山から射放された鏑矢の響きにみな恐れおののき、攻めてきていた蝦夷らは残りなく逃げ退いたという。「その矢のとどまった峰を的場山と言う。」と語るのを聞いた。

早池峰の山



岩田堂

=真澄記= 
医者修の家を出立する。道の左に鳥屋崎の城というのがあり、これが琵琶の柵といって安倍頼時が築かれたものであると語った。 
また道の左右に年を経た槻と椋の木が立っているのを筆塚といって、頼朝がやってきたころから生い立っていた木であるなどという。

見送ってきた人々は、豊沢川の橋を渡って扇堀というところで、「人にふたたび会うのにあふぎという名が縁起がよい。」とこの岸辺からみな帰っていった。 
十二丁目という村の中に、対面ぜぎという細い流れがあり、そこで稗貫と和賀との郡境になっているなどと、土地の人が教えてくれた。 
成田村(北上市)を過ぎて岩田堂、二子(北上市)ときたが、八幡社に阿弥陀仏を祀っているのは奇妙だった。

成田一里塚

豊沢川

対面堰

岩田八幡神社



飛馳(とばせ)森
=真澄記= 
飛馳(とばせ)森というところは、天正十八年の春のころ滅亡した和賀主馬頭の城跡である。 
この主馬という人の先祖は多田薩摩守頼春である。 
頼春の君は、伊東入道祐親の女満幸御前が生んだが、祐親入道が都から帰ってこの児をみて、これは誰か男がいるであろうと問うと、満幸御前のまま母が、「この子は、蛭が小島に流されている者が生ませた、あなたの御孫である。瓜ふたつということばがあるが、それほどよく似ている」と憎々しそうにその児の面を足でなでて、こちらにむかせた。 
祐親は、「なに、頼朝の子であるか、平氏への聞こえといい、また島流しされた罪人のたねでもあり、助けておくことはできない」と意地わるくののしり、「すぐにも深い淵に捨ててしまえ」と命じた。 
しかたなく、殺してしまったと答えて、斎藤五、斎藤六が、曽我太郎祐信などと心を合わせて、この幼い君を人知れず助け育てあげ、頼朝が天下の政を執られる時を待った。 
その時が至り、頼朝が信濃国善光寺に参詣なさるとき、道すがら、この若君のことを申しでたところ、頼朝はひじょうにほめてよろこばれ、梶原をよんで、「どこかの国に二、三万石の土地があろう、これに与えよ。」と仰せられた。 
陸奥のほかにはあいた城がないことを申しあげると、「それにせよ。」と命じられてから、ここに住みなさったのであるといい伝えている。 
斎藤五、斎藤六は、のちに小原、八重樫と名のって、この子孫は今でも南部にたいへん多いという。 
その城の跡に、夏と秋と二度実る栗の木もあるなどと、村長が語っているうちに、日影も傾き、早池峰を向こうに風がたいそう冷たくなった。やがて黒沢尻(北上市)という宿駅につき、昆某という家に泊まった。

安倍の古館

安倍の古館跡

=真澄記= 
宿の主人に誘われて、安倍の古館の跡を見にいった。
加志というところで、黒沢尻四郎政任の世に在った当時をしのんだ。北上川をへだてて国見山がたいそうよく見はるかせた。国見という地名は諸方で聞いている。

安倍の古館跡


昔、和賀郡、江刺郡で境界争いが久しく続いたことがあった。 
そのころ、白い狐が和幣をくわえて駒が岳に去っていった。これは稲荷の神が、その条理を教えなさったものであろうと、争っていた者も仲直りして、おそれ多いと語りあい、相去と鬼柳(北上市)の辺まで分水嶺を検討して、境界には二股の木を植えたり、あるいは炭を埋めた。これを炭塚という。 
それでその川を稲荷の渡、あるいは飯形瀬といっていたが、今はいなせの渡という。 
また西行上人の歌に「みちのくの和賀と江刺のさかひこそ川にはいなせ山にまた森」というのがある。


江刺まで

=真澄記= 
北上川を舟で渡っていくと、「やな」をかけて鮭をとる人々が水辺にいならんでいたが、たいそう寒そうに川風が吹きわたっていた。 

男岡、国見山を見ながら過ぎて行くと、橘村という村があった。 
寺坂を越えると門岡村(以下江刺市)である。南部領を離れ、江刺郡に入って鎮岡神社を尋ね、ここを拝んで、鶴脚、倉沢をへて片岡という所に宿をかりた。