かすむ駒形<1>(胆沢徳岡での正月)


天明5年(1785年)鹿角市から二戸市を経て江刺市にきた真澄は、前沢の鈴木常雄を訪問します。 

また、翌年は徳岡(胆沢町)の村上良知の家で新年を迎え、中尊寺に詣でます。また3月には一関市の配志和神社に詣で、平泉方面に遊びます。 

「1」では主に徳岡での正月行事を紹介します。 


遠く蝦夷の旅を志した真澄ですが、天明の大飢饉を経験し、大勢の民が苦しみ、家畜や病人まで食べ、路傍に朽ち果てる髑髏を見て蝦夷行きを断念します。3年あまりの岩手の生活をしながら再度蝦夷への旅立ちの時期を待ちます。このときの周囲の人々の親切は心に響くものがあったことでしょう。


胆沢郡徳岡で

=真澄記= 
胆沢の郡駒形から衣川に徳岡という里の村上良知という人の家にあって、新年を迎えた。天明8年の正月に人々は若水に墨をすり、筆を執って歌を詠んでいる。 

2日には近所の人々が年始に参る。子供らには松の小枝に銭をさして「馬に乗れたらこれをやろう」と言っている。これらの様はどこの国もおなじだ。 
あっちの広いところでは、大勢の人々が濁り酒を飲みながら語っている。「今年の雷は正月過ぎて真西から鳴っている。この季節の雨といい、あまり良い感じではないな。」などと、大椀を二つも三つも並べて飲んでいる。主が「もっと大きな器で飲め。」と勧めると、「許せ、この酒以外、何の楽しみもないゆえ。」と、人皆「飲めや大黒、謡えやえびす、、」と謡って暮れた。

囲炉裏の風景(津軽のつと)

3日、今日は申(さる)の日と称して、ありとある馬を全て柵の中から追い放って、吉の方角へ追いやった。人々は「がんどう踊り」をして庭の雪を踏みならし楽しそうにしている。馬はと言えば、あるいは嘶き、あるいは跳ねて雪を踏み、雪が深いのにまるで春の庭のようだ。まことに勇ましい駒遊びと言える。 
門々の雪の小松や栗の枝に注連縄やゆづの葉を飾る様はいづこも同じだ。 
「幾春もなお 立添えん栗駒の 山にとしふる松をためしに」



4日、雪の深山に佇んでいる「かげろ」(野馬)が鳴いて驚いた。今日も雪がいたく降った。 

5日、庭の面を見れば、板垣の際や杙(くい)などの雪の薄いところは若草がほのかに萌え染めて、春の心地である。ここは徳岡の里上野。 

6日、霞む空の向こうに山々が遠く薄らいでいる。今宵は節分だ。「天に花咲け、地に実れ、福は内へ鬼は外へ。」と豆を撒いて打ちはやし、囲炉裏の縁に一同居並んで豆まきをした。一年の晴零を祓うのはどこの国も同じだ。 

7日、鶏の初声が鳴く頃から家々から物音が聞こえてくる。まな板にあらゆる椀や食器を載せて、「七草囃子」と言って「まわし木」というもので打ち叩く。 
今朝の白粥に大豆を入れて煮る。年の始めよりの無事(まめだて)として、身に病のないことを祝う行事だ。今日は立春である。雪はなお止みそうもなく降り続いている。梅や桜やなにくれの梢もうらめしそうだ。 

9日、雪がこぼれるように降って寒い。男女の童(わらべ)どもが囲炉裏の火に集まって「つりごと」を言っている。
草子の牛の絵を見て「これは何か。」と問う。「牛子(べこ)。」と言うと、「否、牛(うし)なり。」と抗う。また「これは何か。」と問う。「猿(さる)。」と言えば、「まし(猿のこと)なり。」とつりごと。「止めなさい!」と家の老女が言うと止んだ。「つりごと」とは「あげつらう」ことの方言のようだ。


かせぎ鶏(かせぎとり)

=真澄記= 
12日、小雪が降って寒い。昼過ぎる頃、若男らが大勢肩と腰に「けんだい」と言って藁を編んだ蓑に似たものを着て、藁笠をかぶって、鳴子をいくつも胸や背平に掛け、手には「市籠(いちこ)」と言って藁の組籠を下げて、松明をたてて馬の鈴を振り鳴らしてたり、轡(くつわ)や鳴金(なりがね)などを振って、人の家に群れ入ってくる。 

家々の人は餅や米を取らせるが、それでも金を打ち鳴らして騒ぐ。家人が「ほう、ほう。」と声を上げて追えば、皆去る。また、ものを取らせたら、水をかける慣わしもある。これはみな村々の若者どもに病のないようにとのまじないと言える。 
追われた若者共は「けけろ」と鶏の真似をして雪を踏み騒ぎながら夜更けまで家々を歩く。 
これは「鹿踊(かせぎどり)」「かせぎ鶏(かせぎとり)」という慣わしである。

 上山(山形県)のカセ鳥

14日、例の「かせぎ鶏」等は、ほら貝や笛を吹き、鈴を振り馬の鳴輪、鳴金、鳴子を打ち鳴らして、やかましく家々を回っている。筒子というものや樽を持っていて、家々の手作りの酒をもらい歩いている。昨年は死ぬような病に伏した人が今年の回復を願おうとする者もいるが、多くは村の若者が戯れにやっているようである。 

=AKOmovie= 
山形県上山市には今でも奇習「カセ鳥」が毎年小正月(2月11日)に行われており、真澄のかせぎ鶏を伝えている。 
上山地方(山形県)のカセ鳥

また、南部ではこれを子供で行い、かぶる笠を鹿の角のように作り、手籠を持って餅をもらい歩く風習もあるそうだ。 
80の翁が言うには、「家に押し入り、馬桶を伏せて「すはくえ、すはくえ」と桶を叩いたりしたものだ。 
路でかせぎ鶏に出会えば、「雌鳥(めんどり)か雄鶏(おんどり)か。」と問う。「雌鳥」と言えばその卵を獲ろうと、集めた餅を奪おうとするし、「雄鶏」と言えば、「さらば闘鶏だ。」と力ずくで打ち合い、餅を奪う。しかし、今はそのようなことはなくなったな。」 
この「かせぎ鶏」の姿は、田に立つ驚かしの人形(ひとがた)に似ている。鳴子をつけているのは鳥追いや鹿追いのようでもある。

和賀の人形     


黄金餅を喰う
=真澄記= 
15日、今日は粟餅を「黄金餅」として食べるためしだ。家々のしつけとして代々作り方を伝えている。日が西に傾く頃、「田ううる」と言って前の田に藁をたくさん並べている。また、「豆ううる」と言って豆殻をさしている。 
山畑の雪の中に長い柱を立てて縄を曳いて、その縄に瓜(うり)を刺し貫いて杭に結んでいる。縄の頭には古い草鞋をしばっている。 
 瓜と草鞋(わらじ) 

=花をかける= 
夕飯を食べるやいなや、村中の若い男女や子供たちが、水で練った白粉を手につけて、人の不意をついて顔や頭に塗りつけようと騒ぐ。 
「花をかける」と言って、稲の花がよく咲くようにという遊びだ。 かけられまいと逃げる人の目を見て、「そのようなことはしない。」と言えば、「さらば手のひらを見せよ。」などと、逃げる者と追う者との歓声や叫びで家の内も外も沸きかえる。 
白粉は山からの白土を掘ってきて「花白粉」としたものを水に溶かして塗り歩く。子供などは、人と話している背後から月代(さかやき)に小さな白い手形をつけて逃げる。 これを周囲は笑って見ている。紅をさした顔に、雪が降るように白粉をかけたり、前沢や水沢の里などは大騒ぎだ。 
日が暮れると今度は「へそべ(釜底墨)」と言って、鍋釜の墨をとって油に混ぜて、老若男女塗りあう。みな恐れて土蔵に隠れたり、夜着をかぶって病人の真似などをしている。 また、大根をはすに切って、それに「大」「正」「十」「一」などの文字を彫って、これに墨を塗り、袖に隠して行きずりの男女の顔に押し当て、「一文字顔(つら)よ。」「大文字顔よ。」などと言って笑っている。 
塗り歩く男女も、自分の顔を「黒んぼ」のように塗り、誰かわからない。

鳥追い
=真澄記= 
16日、夜暗いうちに子供達が起きて、細竹で箕(み)を叩きながら鳥追い唄を唱える。 
「早稲鳥ほいほい、おく鳥もほいほい、ものを喰ふ鳥は、頭割って塩して、遠島さへ追てやれ、遠しまが近からば、蝦夷が島さへ追てやれ。」 
また、前沢などでは同じように、「猪鹿、堪六殿に追われて尻尾はむっくり、ほういほい。」と言って追い、笑う。 
夜が明けて見ると、囲炉裏の端の三毛猫も、庭に居る黒犬も真っ白で、「誰が花をかけたか。」と言って笑う。 
かせぎ鶏も今日の午限りとて、激しい吹雪もいとわず、ほら貝、金を鳴らして笛を吹いて群れ歩いている。 

17日、雪が降って寒い。居並んだ子供らは、「早よう寝て、明日は田植え踊りを見るんだ。」と言って床に伏した。夜更けてなお寒い。

田植え踊り(藤九郎)

=真澄記= 
18日、朝は日が照っていたが、やがてひどい吹雪になった。その中を田植踊りの一団が来る。 
笛と鼓を打ち鳴らし、銭太鼓(檜曲に糸を十文字に引き渡して、銭を貫いたもの)という楽器を振っている。赤い鉢巻をしたのが「奴田植え」と言い、菅笠(すげがさ)と女の格好をしたのを「早乙女田植え」と言う。一団の宰領役をやん十郎と呼び、竿鳴子を杖につき、口上を言う。 

「〈えんぶりずり〉の藤九郎がまいった。大旦那のお田植えだと御意なさるる事だ。前田千刈り後田千刈り、合せて二千刈あるほどの田也。馬にとりてやどれどれ、大黒、小黒、太夫黒、柑子栗毛に鴨糟毛(かもかすげ)、躍(おどり)こんで曳込で、煉れ煉れねっばりと平耕代(かけた)、五月乙女にとりては誰れどれ、太郎が嫁(かか)に次郎が妻(かか)、橋の下のずいなし(カジカのこと)が妻、七月姙身(こばら)で、腹産(こばら)は悪阻(つはく)とも、植てくれまいではあるまいか、さをとめども」 
と言って踊る。皆、田をかいならして稲を植える様の手つきだ。 
「植えて腰が病んだら暇をとらすぞ田の神よ。」と返し返し歌い踊る。

藤九郎(奥のてぶり)

踊り手の中に瓜を割って目鼻をくりぬいて、白粉を塗って面とし、これをかぶって踊る男もいて面白い。 
行事が済めば、酒を飲ませ物を食わせて、銭・米・扇などを折指敷に載せて、「今日の祝い事」として田植え踊りに暮れた。