いわての山<2>(盛岡から野辺地まで)

 天明8年(1788年)6~7月、真澄35歳の紀行文です。

岩手県前沢から南部路を北上し青森県の野辺地までの津軽路までを記しています。

 

=真澄記=

天明8年の夏、陸奥胆沢の郡を発って松前に行こうと道をとった。

南部路で子供らが「あれはいわての山だ。」と言う事を以って、この文の名を「いわての山」として。

馬門の関屋(野辺地)で筆を留めた。これより先は「外が浜づたい」という冊子に、その後は「島渡り」で記す。

 

私は昔、蝦夷へ渡ろうと青森から舟に乗ろうとしたが、船頭は「やませ」という風が吹かないと出航できないと言う。思いあって引き返し、宮城野萩が咲く松島・塩釜で遊び、ここ胆沢にて3年がたった。

里の子等、老いも若きも共に過ごした友がきだが、さあ、天明8年夏いざ出立いたそう。

=見果てずもとく立ち返れみちのくの 限り知られぬ蝦夷か千島を= 


巻掘金勢神

巻掘金勢神の祠

=真澄記=

渋民の村を出て、巻掘明神の祠のあたりはずいぶん寂しくなる。

 

芋田、川口などの村に来れば、とても歩けるような道ではない。人足が石を掘り、草を刈り、枝と打ち道を造っている。「ゑぶ」という物に土を入れて曳き歩いているのを見ると、色が黒くて人相が判別できない。

沼宮内を過ぎ、御堂村で日が暮れた。

巻掘の金勢さま


<御堂村泊まり>

山里より信濃路の杣と言う方がよい。蚊がずいぶん多いが、蚊帳などは立てない。

いたどりの太い生木を砕いて小さい箱に入れて厠において尻を拭いている。その名を「籌木(ちゅうぎ)」、「化巾(かきん)」と言っている。


かつかべちごめる

=真澄記=

中山村(一戸町)にきた。幼子が小蝶が飛ぶのを取って「このわらし、かつかべちごめるぞ」と言っている。ところが誤ってその蝶を放してしまい幼子は泣きだしてしまった。

母が来て「ごんぼほる奴はいづこへといなくなれ・なれ。」と言う。小姑が来て「かつかべ捕ってやれ」と言うと、「どす、くうるう。」とて放ておかれた。

「かつかべ」は蝶のことで、「ちごめる」は預かりおくこと。「ごんぼほる」は童の泣いたることを、「どす」は癪の病、「くうるう」とは「じら」とも言って他人を罵る言葉のようである。


末の松山 浪打峠

末の松山浪打ち峠

=真澄記=

小鳥谷、女鹿口、白子坂を過ぎ一戸の里に来た。二戸の郡だ。

日が暮れるというので今日はここに泊まった。

あくる日は朝早く波打ち峠に向かった。盛岡に松ケ坂があり、昨日通った中山には中の松があり、ここは末の松山だと人は言う。

 

峠になれば、山より出る筆貝、松の皮貝、浜かづらなどが砕けた破片を人々が拾って筒に入れている。 まさに「波打ち際」だ。

出土する貝の破片



福岡(二戸)城址

九戸城本丸跡

=真澄記=

福岡(二戸)となった。天正の頃、九戸政實の滅んだ館の跡がある。

なべてこの辺りを九戸郡と言う。

南部路の十郡とは、喜多郡、二戸郡、三戸郡、九戸郡、鹿角郡、閉伊郡、岩手郡、志和郡、稗貫郡、和賀郡と言われている。

<垣根かいたま>

まだこのあたりを「みちのく郡」と言った頃、都より軍が来て兵が入ってきた。里の翁が「しか、垣根かいたま」と言いながら果敢に立ち向かい、都人を笑い返したという。

「蜘蛛の巣に置く垣根かいたま」という歌がある。

九戸城空掘跡



山畑の営み

名川の街道

=真澄記=

前澤村に来た。このあたり畑は粟・稗ばかりしか作れず道も暗い。

たまには男女集まって麦を叩く村もあったようだが。

金田一を過ぎ、浅水の村にきた。

 <浅水の由来>

遠い昔は家2・3あって旅人が宿を借りた。たまに「うむす」と言って旅人を殺し‥‥

旅人を「朝見ざる」という名とも言われる。

浅水の街並



十和田湖の難蔵法師伝説

真澄:十和田湖から八甲田山

=真澄記=

五戸に来た。八幡坂より西に分かれて十和田山に向かう路がある。

伝法寺から藤島へ出ると奥入瀬川がある。この川の上流は十和田の沼と言って大きな湖がある。

 

十和田の海に住む八郎太郎という大蛇が追いやられ、「我が主になる」と言う物語がある。

八郎太郎伝説(難蔵法師)

 

十和田湖から八甲田山



三本木平

=真澄記=

荒涼とした三本木平に出た。東は鮫・白銀・三澤など、南は三戸の山々が連なる。遠い山々の境は雲と霧で白い。

思わず私の故郷の野原、信濃路の安曇野、三方ヶ原などを思い出した。

人の丈よりも高い幡または鉾が見える。これを「狐の柵をふる」と言うそうだ。狐は人の影を借りて隠れ遊ぶ。今年も五回ほど見た。

地元の人はこれを「山市」と言う。越(新潟)に「海市」というのがある。まさに狐の森というにふさわしい。


千曳明神

真澄:千曳明神

=真澄記=

千曳明神がある尾山という所に来た。この社の額は盛岡の東皇文真という人の手だとか。

千曳の石は、千重の荒衣に包んでこの社の下に深く埋められているという。

 

千曳の石物語

千曳明神



野辺地まで

浜の常夜灯

=真澄記=

霜松川を渡れば馬門の関・野辺地の港だ。十府の浦に一夜をとった。

宿の主人に「おぶちの牧(尾駮の牧)はいづこか。」と問えば、「佐井の港の向こうに大間の浦と奥戸の浦に大きな牧場がふたつあり、その辺りだ。」とのこと。


野辺地の街


名馬花鳥号の像(愛宕公園)

南部には9牧12野、津軽郡に5牧ありと言う。共に名馬の産地。葉月の頃に2歳馬をとるそうだ。いつか行ってみたいものだ。

さて、浜づたいに蝦夷をめざそう。


<南部の9牧12野>

三戸の住谷の牧、相内の牧、五戸の木崎の牧、同・又重の牧、野辺地の有戸の牧、野田の北野の牧、同・御崎の牧、田名部の大間の牧、奥戸(おこっぺ)の牧、以上9牧にに七戸のたちの馬里、八戸の牧、遠野の牧を合わせて12野としている。


<津軽の5牧>

枯木平、入内(にうない)、母谷(もや)、滝ノ沢、津軽坂とて5牧なり。