菅江真澄のお墓
秋田を歩き、秋田を誌し、秋田を愛した翁は、取材途中梅沢(田沢湖町)で病に倒れ、角館に運ばれて没したとも、梅沢で亡くなったとも伝えられています。
文政12年(1829年)7月19日、76歳のことでした。
翁の遺骸は友人鎌田正家(秋田市の古四王神社の摂社田村堂の神官)の墓域に葬られました。
天保3年(1832年)、3回忌をもって墓碑が建立されました。
墓碑名は翁の弟子鳥屋長秋が書き、長文の挽歌が刻まれています。
鳥屋長秋の挽歌
友たち あまたして 石碑立る時によみてかきつける
雲はなれ ここに来をりて 夕星の かゆきかくゆき 年まねく あそへるはしに
かしこきや 殿命の 仰言 いたたき持って 石上 古き名所 まきあるき かけるふみをら
鏡なす 明徳館に ことことにささけをさめて
剣太刀 名をもいさをも 万代に きこえあけつる はしきやし 菅江のをちか おくつき処
真澄の終焉の地
民族学者で、紀行家でもあった菅江真澄は、文政十二年(1829年)七月十九日、角館の神明社に住まいしていた神主鈴木家にて、地誌「月の出羽路仙北郡」を未完のまま没したと伝えられています。
=伊頭園茶話より=
天樹院公明徳館へ真澄召されし時も、黒袖の頭巾を冠て出ると言う。白井永治秀雄といいしは疑いなし。自筆のものに見えたり。
初め秋田に来りし頃は、三河に父ながらいたると見えて、日記の序文に父に見するとて、諸国の事を書き集める故見える。
二十代より来て三十年も住みしと聞ゆ。
独身にて、虚々方々食客なり。定むる住居なし。
巡回先、仙北郡梅沢村にて病み、角館神明主の宅にて終わると云々。
寺内村の神職鎌田直紀が家に送られ、同所に葬る。鳥屋長秋が文石碑にありとぞ。
七十六七歳にて死とあれば、三十歳にて来しとても、四十年余り秋田に在り、また梅沢に終わるとも云々也。
北家御抱医師 吉原由之氏 「久かたの 月の出羽路書きしるす 筆の跡こそ千代もすむらめ」
に対して 「しるべなき 月の出羽路われ迷う つけし千鳥の跡も恥ずかし」真澄
と返歌しています。