この「菅江真澄遊覧記」の始まりとなる紀行文です。
天明3年(1783年)30歳の春、真澄は故郷の三河を後にして北に向かって旅立ちました。生涯をかけた旅の始まりです。真澄の本名は白井英二といわれていますが、この時は白井秀雄と名乗っていたようです。
故郷の国三河を離れ、信濃の国に入るまでの日記は「盗難に遭った。」と書いています。長い旅路を覚悟し「路銀」も用意していたでしょうに、どんなに心細かったことか。
その後の「遊覧記」と呼ばれた最初の一冊である「伊那の中路(いなのなかみち)」は、南信濃の城下町飯田に着いたところから始まり、本洗馬(今の塩尻市洗馬)までの紀行文を記しています。
天明3年2月故郷を出て
=真澄記=
この日本国中あるすべての古い神社を参拝して回り、幣をあげたいと思い立ち、天明3年のどかな2月の末、父母と別れ故郷を後に旅に出た。
二村山の宿を通り、我が故郷の国三河を離れ、美濃の中山を遠くに眺め、信濃の国に入るまでの道中を記した日記は「白波にうちとられたれば、すべなし」(盗難に遭ったから致し方ない)
3月半ば、飯田の厩に着いた。
浪谷の伊良翁(親王)権現縁起
=真澄記=
応永(1400年)の頃であった。
伊良(ゆきよし)親王、この辺りより三河の国に趣く途中、敵(飯田太郎・駒場小次郎ら200余騎)に囲まれたまいて、「さすらいの身になってしまった今は是非もない。」と静かに座られた。
この国(伊那)の浪谷という山里の荒い滝河の辺りで、「思いきや いく世の淵を逃れきて この波合いに沈むべしとは」と時世の句を詠んでお隠れになった。
人々はその御霊をこの里近くの山裾に神として祭り、「良翁権現(浪合神社)」としてあがめ奉った。
私も若かりし昔、更科や姥捨山の月を見ようとその麓を訪ね、奉ったことがある。
友を訪ねて(風越山の麓)
=真澄記=
この飯田に友がいて訪ねたが、以前に大火があり家々が焼けてしまった。人に問うても家も分からず、風聞では老いて重い病で伏しているという。訪ねることもためらってしまった。
ある旅宿の前を過ぎると歌の手習いをしている中根なにがしと言う家である。思い当たって訪ねてみるとやはり友であった。
手を打って「これは久しい」「ゆっくりしていけ」「元気であったか」と久しく相見て挨拶し、その夜は久しく語り合った。
次の日「近くを案内する」と言い、風越山の麓に「くくり姫(菊理姫命)」を祀る小さな祠を見た。嶺の雲、尾上のゆきがまばゆく、付近の桜も盛りで、心浮かれて芝生の上に夕方まで景色を見ていた。
=風越の 山は名のみぞ おさまれる 御代の春とて 花の静けさ=
遠い麓の梅はもう過ぎて散っている。
鹿塩と大河原
=真澄記=
飯田の城は長姫と言って、この伊那の中央にあたる。
東の山奥に「鹿塩」、「大河原の荘」と言って頼朝の日記にも書かれている所がある。鹿塩の東は甲斐の国の鰍沢となる。山中より湧き出る水を汲んで、これを焼いて塩として食べている。
(鹿が温泉の水を飲んでいることから発見された鹿塩温泉のことと思われる。)
流れる川を塩川と言うそうだ。
付近には柳島、市場、から山、梨原。大河原の付近には滝澤、釜沢、桶谷などがあり、人々は手を摩って「お~寒い。世間では衣を替える頃だというのに。」と、何くれと話している。